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第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

丸沼の鱒釣り -思い出すまま- (全文) (土方 寧 大正8年)について

法学博士 土方 寧 1859~1940) 東京帝国大学教授 民法学者
雑誌「釣の趣味」(大正8年9月号)収載

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私が釣魚を始めたのは、恰度今から三二三年前の明治二十年頃であった。
その頃は品川湾の釣魚が今よりもずっと盛んだった。
今は隅田川の沿岸から種々な汚物が流れ寄って穢ないから、たんと出かけないが、その当時は未だ海も清潔だったし、方々から大勢釣魚者が集まって面白かったから私もよく脚立づりと云うのを遣ったものだ。
船を海の浅瀬に片寄せて積んできた脚立(折り畳むそうな仕掛になったもの)を水中に立て、それに乗り移って釣糸をたれると云う方法なのであるが、多くは梅雨の頃で、昼になると南の風が出て浅瀬が荒れ濁るから、昼間は釣れないものとされ、朝は出きるだけ早くから始めて、まづ正午前まで釣るのが一番漁があった。
で、一度釣魚に出掛けるとなると、釣る時間の短い割合に空しくその一日を潰して了〔しま〕わねばならぬつまり朝暗いうちから起きると、なると自然前の晩は殆ど眠れないし、釣魚から帰った午後も疲労と眠気とで茫乎〔ぼんやり〕して何も手につかぬと云う風でかなり、不便も感じないではなかったが、しかし、又一面から云うと、小暗い夜明前から海に出て、ひやりとした暁の海風に肌を晒しながら、四時頃になってほのぼのと水面の明ろくなるのを待って釣りはじめる、あの爽やかな心持は実に云〔なん〕とも云えない。
十月時分になると、私はよく海苔ひびの近くへ船を遣って、麦畑の畝のように立ち列〔なら〕んでいる竹垣の中間に釣糸を投げて、鯔〔ぼら〕や黒鯛を釣ったものである。
こうして、明治三十年頃まで約十年間くらい釣魚を続けたが、その後二十七年頃から鉄砲猟を始めるようになって、品川湾の釣魚はながく中絶して了った。
ところが、この鉄砲猟も明治天皇崩御の諒闇中に止めて以来、気抜けがして了って、今に出かけない。

そこで元の釣魚道楽が復活して、今日の日光丸沼の鱒つりとなったのである。
この日光の鱒つりの話をすれば、勢い現在吾々仲間の遣って居る(鱒釣り會)の由来も明らかになる訳かだら〔原文ママ。「だから」の誤植〕、少し許〔ばか〕り思い出すままに話して見よう。
日光に遊んだ者は、誰でも湯元から中禅寺湖に注いでいる湯川を知っているであろう。
この川は蜿々〔えんえん〕と曲がり曲がって二里余りであるが、その中禅寺湖へ注ぐ川口を菖蒲浜と読んで居る。
ここに、十四五年前、当時の宮内省御料局(今の帝室林野局)の経営にかかる魚の養殖場が設けられて、湯川と湖とに鱒を放養した。
鱒の種類もいろいろあるが、この時分養殖されたのは、アメリカ産の虹鱒(Rainbow trout)と云うので、繁殖の極めて旺〔さか〕んな種族であった。
胴の両側に虹のような斑紋があるので、この名が出たのである。

かくしてこの養殖場では、湯川で一日一円、中禅寺湖で一日五十銭の料金を徴して誰にでも釣ることを許可したのである。
ところが、七年程前、鉄砲猟や釣魚の友達で、私と極く仲の善い貴族院議員の鍋島桂次郎氏が、これも外交官出で以前仏蘭西大使を勤めた栗野子爵と同伴で、この湯川へ釣りに行ったことがある。
『大変面白いところだから是非案内しよう』と私は勧められた。
恰度八月の初旬であった。
私は鍋島氏に伴われて、湯川に行って見たが。
一向に釣れない。
鍋島氏も気を揉ん。
『いや漁不漁のあることだから仕事〔原文ママ。「仕方」か?〕がない。
しかし、何とかして小気味よく釣らせたいものだな』などなど気の毒がった。
実際初めての場所で、初めての時に釣れないことは、せっかくの弾みを抜かして了う。
氏はそれを心配したのだ。
ところが吾々は、中禅寺湖で「湯本〔原文ママ。「湯元」か?〕から山越しで三里程行くと上州の方へ降るところに、丸沼と云う湖水がある。その湖水へ行くと素晴らしく釣れる。」と云う噂を耳にした。
で、吾々は直ぐにも行って見る気になった。

そのときの話では、何でも群馬県の富豪の千明氏が、水産講習所と共同してその丸沼に鱒を飼養していると云うことであったが、何しろ丸沼と云うところは、湯本へ三里、上州の人家へ三里と云う深山の無人境で、養殖場にも一棟の家がある許り、泊るに夜具もなければ、食事の用意もあるまいと云うので、吾々は出発するに先立ち、湯本まで行って、米や味噌や缶詰などを買い求めて人足に持たせさて、丸沼に向かったが、その山路の険しいことと云ったらなかった。殆ど道らしいものとてはなく、夜の通行は無論のこと、馬さえ歩行の出来ないところを、或は荊棘〔いばら〕を繰〔くぐ〕り、或は乗り越えつ、或は匍〔は〕いつして、漸く目的地に着いたが、この時は千明氏の令閨がどこでか私どもの企てを聞いて出迎いにまで出て下さったので兵糧-宿泊までの用意万端心を用いて要がなくなった。
早速その湖水に釣糸を垂れたが、釣れること、釣れること、実に面白かった。
湯川の不漁をここで十分に償って、私達は喜び勇んで帰京した。

この愉快な釣りに味をしめて、その翌年で鍋島氏と語って丸沼へ行った。
今度も却々〔なかなか〕の漁があった。
で、東京倶楽部の一員たる鍋島氏はこの吉報を齎〔もた〕らして、倶楽部員間に吹聴したので「そりゃ面白いぜひ釣りに行こう」と云う人が続々と出た。
終に、釣魚仲間が出来、同志語って日光の鱒釣り會を作ったのであった。
これが新聞などで大袈裟に噂されるようになったのだが、つまりは鍋島氏と私とが丸沼に探検的な釣りを試みたのがそもそもの動機で、足掛三年目にこの會の成立となったのである。

鱒釣會の會員は、始め十幾人で、今村繁三氏、赤星鉄馬氏、西園寺八郎氏、伊集院子爵(今は退会)飯島魁氏、鍋島桂次郎氏と私などであった。
會員の中には釣魚に初心な人もあって、西洋流の釣竿を英国へ注文するやら、特別注文の竿を名題の職人に誂〔あつら〕えるやら、皆大いに弾み出した。
が未だ行かぬ人もある。
憲政会総裁の加藤男も會長と云うことになって居るが、往復に日数を要するところから、激務に寸暇なく、まだ一度も行かぬが、何しろ金のある人々の集りだから、その後丸沼の魚釣場には、種々の設備が出来て、近頃は頗る便利となり、したがって釣りも盛んになって来た。
會が出来てから恰度七年になる。
會員も増加して今では二十幾人になった。
岩崎小弥太男、古河虎之助氏なども入會している。

一昨年は「宿が一陳では不便だから」と云うので、今村氏と赤星氏とが協力して、更に一陳、家を丸沼に新築することになった。
その建築用の木材は、千明氏の寄附で、持山の生木を伐ったものである。
各年〔原文ママ。「昨年」か?〕年の暮に、その新築が成った。
一万三千円からの経費をかけた立派な家で、温泉も引こうと云う計画もあったようだ。

今では主として今村氏が會の世話を焼いて呉れている。
何時かも氏が態々〔わざわざ〕東京から料理人を連れて来て山中とは思えぬ贅沢な食事を調理させたりした。
が、余り贅沢すぎるので、その後は湯本の板屋と云う温泉宿の主人に托して、あまり贅沢でない。
野趣のある料理をつくらせて食べた。

七月八月を漁期として、會員は随時避暑かたがた釣りに行ける
こう云う訳で、今では万事万旦便利になって、頗る結構は結構だが、釣魚の趣味から云えば、寧ろ不便でも閑寂で野趣の漲った気分の方が貴いと云う者もある。
この丸沼には目下虹鱒のほかに姫鱒と云う日本種の鱒が居るこの姫鱒は食膳に上して頗る美味であるが、あまり弘〔ひろ〕く生存しない。
今では方々にこの種の鱒を飼養している。
秋田県の十和田湖にも盛んに繁殖させているが、先年丸沼に虹鱒を繁殖させていた技手が、北海道の或る湖から、この姫鱒を丸沼に移して放養したので、今では虹、姫二種の鱒が釣れる、訳であるが、この人が最近栃木県庁の技手になって赴任したので、その後任者がいないのに困っている。
この技手は頗る特志な人で十年近く丸沼に止まって鱒の養殖に従事したのだが、虹鱒の卵を撒くのは極寒で、雪の山籠りの侘しさは並大抵でない丸沼は何処へも交通が杜絶えるのであるから、余程の特志家でないと辛抱が出来ない訳で、未だに志望者を得ない始末である交通杜絶で思い出したが、最初私達が行路難を感じた山路は、その後會員が據金して修繕したので、今では夜間も提灯があれば歩けるし、馬で踏み入ることも出来るし、危険はなくなったことに先年北白川宮が吾々の鱒釣りを許可〔おみみ〕にせられ、御微行で丸沼にお越しになった時、県庁の方で倉皇〔きょこう〕として道路の修理にかかったので、吾々は今思わぬ余慶を蒙って非常に喜んでいる、北白川宮の御来臨のあった時は、英国で盛んに練習して来たかばり釣りの名人鍋島桂次郎氏が御同乗申して、小舟で湖水を乗り廻し、更に七八間離れて、私が別の舟で投げ釣りを試みたが、その日は一向に食わなかった。
その前日から宮様の御来臨を仄聞した吾々は、湖を荒らさずに置いた甲斐もなく、生憎なことであった。天候気温の加減で、余程漁に違いがあるので、何とも致し方がなかった。

吾々の鱒釣りの根拠地丸沼の外に、菅沼、瓢箪沼と云うのがあるから一寸紹介しよう。
湯本から山越えで一里余進むと山頂に金精峠と云うのがある。
栃木県と群馬県との境で、海抜約五千幾百尺、この峠を下ると海抜五千尺位の処に菅沼がある。
更らに下ると件の丸沼があり、丸沼から二十間位の長さの掘割のような谷川に続いて下の方に瓢箪沼がある、菅沼は丸沼より三四倍の大きな湖で姫鱒がいる。
千明氏が網で捕らせて日光の街へ売り出している。
瓢箪沼も丸沼より大きい湖だが、鯉や鮒などは居るが、草の多い所為で鱒はいない。
尚釣魚の出来る谷川では大瀧川と云うのがある。
湯川よりも大きく、目下この川一里あまりは手続を済まして釣りの占有権を持って漁番をしている。
しかし釣り者にとって面白いのは、何と云っても丸沼でことに虹鱒のかばり釣りである。
丸沼のは前述のように虹鱒と姫鱒との二種がいるが、この姫鱒と云う奴は殊に川を嫌って湖水を好み、それもずっと深みにいる會員の一人飯島氏は動物学者の立場から、「この姫鱒は鱒と云ううち、鮭に近いもので、多分海から湖水へ流れ上って来て、海へ下れずして湖に居残ったものだろう」その推測を下しているが、兎に角この鱒は深みにいるから餌を沈めて釣る、跳ね回って却々〔なかなか〕荒れる魚であるが、釣りのなぐさみから云えば虹鱒に如かぬ。
虹鱒は川を好み、水面に浮いて来る魚で、かばりで釣る、殊に蝶や蛾や蟲類を巧妙に鈎に細工した。西洋式のかばりで釣ると、一段の趣きがある。
湖水の場合は小舟で湖上に乗り廻して、かばりを十間位先へ投げる、竿は一間半にも足らず、なまりもないのに、投げ方がうまいと、いくらでも遠方へ鈎が飛んで行く。
その投げ方の巧拙に面白味がある上に、水面に浮いて来た虹鱒の鈎にかかるのが舟の上から見られるし、かかつた魚を手許の糸捲で、糸を捲いて引き寄せる間の興味もあって、却々に趣きの深いものである。

今年の夏は私は、丸沼に十日許り逗留して土方久徴氏と倶に釣ったが大漁で、一日に百幾匹も釣った。
今村氏、飯島氏、田中氏(前満鉄理事)なども行ったまた今度巴里の講和会議の晴の舞台から帰った西園寺八郎氏も却々熱心な會員で、九月に行くと云って居る段々に會の旺んになるのは結構なことだ。
何しろ、丸沼は深山の別天地で、東京市中で九十度に昇る酷暑の日も、この地は七十度位のもので、空気が乾燥して涼しく、随って蚊も居なければ虱〔原文では「のみ」のルビあり〕も居らぬ。
好箇の健康地と云って差支えない。
今村氏の云う如く、真に繁忙な実業家が俗事を忘れて、命の洗濯とするのに、この山中の釣魚くらいいいものはないと思う。


本書は、雑誌「釣の趣味」大正8年9月号に寄稿されたもの。
著者の死後50年経過により著作権期間が満了。
全文を掲載。
なお、原文はルビで読み仮名がふられているが読みが困難なものを除き原則として省略した。
また、旧漢字・旧仮名使いを適宜現代文に改めている。

土方寧

民法・イギリス法学者。
土佐(高知県)に安政6年2月12日生まれ。
1859-1939 明治-昭和時代前期の法学者。
東京大学法学部を卒業した。
民法を専攻し,イギリスに留学。
1883年(明治16)同大学の助教授となり、1887年にはイギリスに留学し、バリスター(法廷弁護士)の資格をとった。
1891年帰国し、教授に進み、1925年(大正14)までその職にあった。
民法典編纂(へんさん)以後の、わが国におけるイギリス法研究の代表的存在とされる。
また、1885年には、英吉利法律学校(イギリスほうりつがっこう)(現在の中央大学)の創立に力を尽くした。
明治24年帝国大学教授となり,44年東京帝大法科大学長。
英法の研究に道をひらいた。
18年開校の英吉利(イギリス)法律学校(現中央大)の創立者のひとり。
大正11年貴族院議員。
昭和14年5月18日死去。
81歳。
1939年(昭和14)北支派遣軍慰問中、天津(てんしん)に客死した。
著書に『英国契約法』(1887)、『英国流通証券法』(1888)がある。
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by kftkubo | 2012-05-18 22:50 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)