フィッシャーマンのためのフィッシングカフェ


by parlett

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

カテゴリ

全体
フライフィッシングの夜明け
カズさんからの手紙
野生魚を追え!!
フライ フィッシング
フライ タイイング
河川の放射能汚染
未分類

最新の記事

サクラマスの一生
at 2014-12-21 16:55
野生魚を追え!! - 川のラ..
at 2014-10-25 07:36
鬼怒サケ
at 2014-10-12 07:46
鱒釣りの聖地巡礼 その3 湯ノ湖
at 2014-08-06 21:30
カズさんからの手紙 54  ..
at 2014-07-14 09:20
鱒釣りの聖地巡礼 その2 大谷川
at 2014-06-22 21:30
カズさんからの手紙 53 3..
at 2014-06-18 17:52
カズさんからの手紙 52 先..
at 2014-06-12 19:40
鱒釣りの聖地巡礼 その1 中..
at 2014-06-08 20:30
カズさんからの手紙 51 2..
at 2014-05-24 06:32

以前の記事

2014年 12月
2014年 10月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 08月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月

ファン

お気に入りブログ

shakerの軽井沢 F...
グリースドラインで釣り日記!
ギフの山猿「フライ日記」
渓流の近くで一泊
Down & Across
Metropolitan...
高太郎の箸休め
Uncle's Cafe
ゾウさんのHotひと息
Cloud Number 9
CURTIS CREEK 情報
つっちーのフライフィッシ...
Camel Blog
毛鉤人のViva,FF
陸に上がってた☆Flyman!
Highland Can...
Tokyo/Naha C...
ajax_spey diary
いないなのホビーハウス
和尚exさんのまんぷく日記♪
森のフィッシュ魚ッチング
~BQイッチー フィール...
ふらい人 / Towar...
amaneiro
春が来た

外部リンク

LINK

タグ

ライフログ

最新のコメント

貴重な情報ありがとうござ..
by kftkubo at 11:33
中禅寺湖南岸の放射線量率..
by 栃木還暦 at 17:14

最新のトラックバック

http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..

検索

その他のジャンル

ブログパーツ

記事ランキング

ブログジャンル

釣り
アウトドア

画像一覧

カテゴリ:フライフィッシングの夜明け( 15 )

第15章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(7)・・・「加藤 高明」

第15章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(7)・・・「加藤 高明」

c0239720_13395826.jpg


明治維新によって広く欧米に門戸を開いた日本では、その後、上流階級の子弟が次々に留学へと旅立っていった。
欧米の文化、技術を学び、一刻も早く日本がそれに追いつくことを願う、向学心に燃えた若者たちである。
しかし、彼らが持ち帰ったのは政治や経済、科学の先進情報だけではなかった。
欧米上流階級の生活様式や価値観、余暇の過ごし方も身につけて帰国したのである。
趣味や遊びを通じて友好を深め、それを事業や政治に活かすという流れは、古今東西珍しいものではないが、その子弟たちは日本になかったフライフィッシングやゴルフなどを嗜むようになっていたのだ。
鹿鳴館でダンスを踊りながら文明国であることをアピールしたり、各国外交官との交遊を図ったのは有名な話だが、こういった趣味などが果たす役割も見逃すことはできない。

そんな日本の上流階級の人々が奥日光の地にマス釣りの桃源郷を見出した。
丸沼である。明治時代初頭、すでにニジマスなどの養殖、放流が行なわれていた同湖は、周囲を豊かな緑で覆われ、その清冽な湖水は水源をほぼ湧水に依存という恵まれた環境にあった。
海抜千mを優に超すその気候は夏でもさわやかで、高温多湿の首都東京に暮らす彼らにとっては絶好の避暑地でもあった。
後の外務大臣加藤高明や鍋島桂次郎は、ここに丸沼鱒釣会を発足させ、日本におけるマス釣りの歴史が幕を開けたのである。


加藤 高明 (かとう たかあき)

生年月日 1860年1月25日(旧暦安政7年1月3日)
出生地 尾張国
没年月日 1926年1月28日(満66歳没)

出身校 東京大学法学部卒業
前職 外交官(在イギリス公使)
所属政党 立憲同志会 → 憲政会
称号 正二位 大勲位菊花大綬章 伯爵
法学士(東京大学・1881年)

配偶者 加藤春路(岩崎弥太郎長女)

第24代 内閣総理大臣
内閣 加藤高明内閣
任期 1924年6月11日 - 1926年1月28日

第16・19・26・28代 外務大臣
内閣
第4次伊藤内閣 (16)
第1次西園寺内閣 (19)
第3次桂内閣 (26)
第2次大隈内閣 (29)

任期
1900年10月19日 - 1901年6月2日 (16)
1906年1月7日 - 同3月3日 (19)
1913年1月29日 - 同2月20日 (26)
1914年4月16日 - 1915年8月10日 (29)

その他の職歴
貴族院議員 (1915年8月10日 - 1926年1月28日)

生涯

財界への歩み

尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれた。
父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。
1872年(明治5年)、祖母・加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。
旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、1881年(明治14年)7月に東京大学法学部を首席で卒業し、法学士の学位を授与された。
その後三菱に入社しイギリスに渡る。
帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚。
このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる。

財界から官界、政界へ

外務大臣在任中
1887年(明治20年)より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。
1900年(明治33年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。
その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。
その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅選議員に勅任された。
1913年(大正2年)、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は総裁職を総理と呼称していた)となった。
翌年第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。
大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。
しかし、同志会結成の過程で犬養毅らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。
また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った。
唯一、高橋内閣総辞職の際に、「加藤友三郎が辞退した場合には、加藤高明を後継総理とする」決定(「加藤にあらずんば加藤」といわれた)が元老会議で出された事があったが、これを知った立憲政友会が辞退を決意していた加藤友三郎を説得して翻意させてしまったために政権獲得の好機を逸している。

組閣以降

第二次護憲運動で清浦内閣が倒れ、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の所謂、護憲三派が新しく組閣することになった。
1924年(大正13年)6月11日、憲政会が比較第一党となり加藤は内閣総理大臣となった。
加藤は東京帝国大学出身初の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。
しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。
この法規は後に言論弾圧の口実として使われ、特に戦時中に乱用されたとして治安維持法反対派からは強く批判されている。
一方で治安維持法擁護派からはこの時期に労働運動が多発しており、またロシア革命の影響から普通選挙法によって共産主義が爆発的に広がる可能性もあったことから出されたもので、当時の各国も同様の法規を有していたことからやむを得ぬものであったとする意見もある。
また、宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。
こうした右左の政治を狡猾に使い分けた加藤の治世を飴と鞭と称することもある。
また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、大正デモクラシーの成果が実った内閣でもあった。
この内閣には元総理の高橋是清、加藤のあと次々と総理となる若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎(臨時)、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。
翌年、憲政会と政友会のつなぎ役であった横田千之助司法大臣が急死すると、政友会と憲政党は内紛を起こして護憲三派連立は崩れて加藤内閣は崩壊する。
だが、元老の西園寺公望は自らが次の政友会内閣の首班に期待していた横田が死ぬとたちまちその遺志を踏みにじって護憲三派を崩壊させた政友会に失望して、個人的には好意的ではなかった加藤に政権を続投させる決断をした。
これを受けて1925年(大正14年)8月2日、加藤の憲政会単独内閣となる。
しかし、その翌年の1月22日、加藤は帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れてそのまま6日後に逝去。
66歳没。
加藤の逝去後に、若槻禮次郎が内閣総理大臣臨時代理を経て組閣の大命を受けて第1次若槻内閣を組閣し、大正から昭和へと時代が代わることとなる。

家族

妻は岩崎弥太郎の長女・春路。
長女悦子は岡部長景の妻。
新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。

栄典
1902年(明治35年)12月28日:勲一等瑞宝章
1911年(明治44年)8月24日:男爵
1916年(大正5年)7月14日:勲一等旭日桐花大綬章、子爵(陞爵)
1926年(大正15年)1月28日:大勲位菊花大綬章、伯爵(陞爵)

伝記 [編集]

ウィキメディアより引用。


三菱人物伝 加藤高明

加藤高明(かとうたかあき)と幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)。
ともに外交官から外務大臣に抜擢され、政界に転じてついには首相になった。
頂点に立った時期は20年ずれるが、ふたりとも岩崎彌太郎(いわさきやたろう)の娘を妻とした「三菱ゆかりの人」である。

四季折々の花が香る名古屋の鶴舞公園に、野外ステージ「普選記念壇」がある。
正面に『五箇条の御誓文』が掲げられ、なにやら場違いな感じがしないでもないが、じつは護憲三派内閣の首相となった加藤高明が、大正14年(1925)に普通選挙法を成立させたことを記念して建設されたものである。
国税を3円以上納付した男性に限定されていた選挙権はこれにより25歳以上の男性すべてに開放され、有権者数は一気に4倍になった。
女性にも参政権が与えられるのは、終戦後の昭和20年〈1945〉になってからである。
この時の首相は奇しくも義弟幣原喜重郎だった。

加藤は万延(まんえん)元年(1860)尾張(おわり)藩の下級武士の家に生まれた。
東京大学法学部を卒業すると郵便汽船三菱会社に入り、明治16年(1883)に英国の海運業を学ぶためロンドンに留学した。
明治18年に帰国して三菱に復帰、神戸支社副支配人となり、のちの合併で日本郵船へ。
翌年、岩崎彌太郎の長女春路(はるじ)と結婚した。
英国留学で垣間見た国際舞台を忘れられず、ロンドンで知遇を得た陸奥宗光に働きかけて推薦を得、明治20年に外務省に入った。

加藤は持ち前の明晰な頭脳と剛直な性格に加え、運にも恵まれた。
間もなく、義父岩崎彌太郎に理解のあった大隈重信が、黒田清隆内閣で外務大臣になった。
加藤は大隈の秘書官として登用され希望通り国際舞台に踊り出ることができた。
外交官としてのその後は順風満帆で、やがて駐英公使となり日清戦争後の日英関係の好関係樹立に尽力、明治33年には第4次伊藤博文内閣で外務大臣になった。
このとき、 40歳。


護憲三派内閣の首相に

かくして政界に足を踏み入れることになり、かたわら東京日日新聞の社長も務めた。
41年の桂太郎内閣のとき加藤は駐英大使に転出したが、時代の節目節目で外相を務め、第一次世界大戦後は「対華21か条の要求」など強気の外交政策を主導した。
大正5年には憲政会総裁になり、大正13年5月の総選挙では、高橋是清の政友会、犬養毅の革新倶楽部とともに第二次憲政擁護運動を展開、三政党で過半数を獲得した。
第一党となった憲政会の加藤が首相になり、「護憲三派内閣」を組織した。
「護憲三派内閣」は、まずは貴族院の力をそぐ政治改革を断行、次に、懸案の『普通選挙法』を成立させ財産による選挙権の制限を撤廃し歴史に名を残した。
一方では無政府主義や共産主義勢力の台頭を抑えるため『治安維持法』も成立させている。
大正14年に成立した第二次加藤内閣は憲政会の単独内閣だったが、やんぬるかな、加藤は体調を崩して首相の座を若槻礼次郎に譲らざるを得なかった。
二日後に肺炎で急逝。
毀誉褒貶いろいろある政治家だったが、明治から大正にかけて、激動の時代の日本を動かした、存在感のある政治家だったことには異論がない。

三菱資料館 三菱人物伝 加藤高明 より引用。
[PR]
by kftkubo | 2012-08-16 13:40 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第14章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(6)・・・「古河 虎之助」

第14章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(6)・・・「古河 虎之助」

今から100年前の大正元年(1912年)、当時の政実業家たちの親睦団体である「東京倶楽部」の釣り好きによって「丸沼鱒釣倶楽部」が生まれた。
今村繁三、赤星鉄馬、土方寧、西園寺八郎、伊集院子爵、飯島魁、加藤男爵、岩崎小弥太、古川虎之助、鍋島桂次郎などが主なメンバーであった。
後に、ハンス・ハンター氏が奥日光中善寺湖畔に鱒釣りを中心とした会員制の『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 を大正末から昭和初期に設立した。
在日外交官や日本の上流階級の紳士的な社交の場として設けた同倶楽部は秩父宮、東久邇宮、朝香宮を賛助会員に、代表は佐賀藩主の家柄の鍋島直映(なおみつ)公爵、会長は時の加藤高明首相、副会長には三菱財閥の岩崎小弥太男爵、会員には後の日銀総裁土方久徴、古河財閥の古河虎之助男爵、樺山愛輔伯爵ら錚々たる人たちが名を連ねている。

c0239720_1256193.jpg


c0239720_12531554.jpg
古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ)
明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)

日本の実業家。
東京都出身。
古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。
男爵。
虎之助が大正6年(1917年)から大正15年(1926年)まで暮らした邸宅は、現在は都立旧古河庭園として公開されている。
歌舞伎役者が隣りに並びたがらない程の絶世の美男だった。
古河市兵衛の晩年の子である。

明治36年(1903年)に慶應義塾普通部を卒業し、ニューヨークのコロンビア大学に留学。
明治38年(1905年)1月に義兄である潤吉の養子となるが、同年12月に潤吉が36歳の若さで病没したため、若くして古河財閥の3代目当主となった。
間もなく、副社長として病床の潤吉を支えてきた原敬も内務大臣就任のため古河鉱業を辞任。
市兵衛の片腕だった木村長七が虎之助の後見人となって実際の経営を取り仕切った。
明治40年(1907年)親戚で古河鉱業社員の中島久万吉と共に欧米を遊学の後に帰国。
この中島久万吉が後の古河家を支えていく。
大正4年(1915年)12月1日、経済発展に尽力した実父市兵衛の勲功により男爵に叙爵された。

虎之助が財閥を相続した当時、経営基盤は依然として足尾銅山が産出する銅であった。
鉱毒問題に対しては、古河鉱業も鉱毒予防令に従い対策工事を実施していたものの、同社への非難の声はなお根強かった。
1906年、古河鉱業社長に就任して間もない虎之助は社会的な非難を緩和すべく、原敬の助言に従い資金難で設置が危ぶまれていた東北帝国大学と九州帝国大学の校舎建設費用の寄付を申し入れた。
寄付金の総額は1907年度から5年間で106万円に達した。
この資金で建てられた校舎のうち1棟が、現在も北海道大学構内に古河記念講堂として残されている。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、銅の特需に後押しされた古河財閥は経営の多角化を推し進めた。
1918年までには、持株会社の古河合名会社が直轄する鉱業(古河鉱業)・金融(古河銀行)・商社(古河商事)を中心として、傘下に20社以上の企業を束ねる一大コンツェルンに拡張させた。
しかし1920年の戦後恐慌による銅価格の暴落や投機取引の失敗により経営が失速。
1921年に古河商事が破綻、1931年には古河銀行を第一銀行に譲渡するに至り、総合財閥として欠かせない商社と金融の機能を喪失した。

一方、社長在任中には古河電気工業(1920年合併)や富士電機製造(1923年設立)、富士通信機製造(1935年設立)など、後に親会社の古河鉱業を上回る大企業となった会社が複数誕生している。
軍需の拡大した1930年代は鉱業部門に代わってこれらの工業部門が業績を伸ばし、古河財閥は再び急成長していった。
[PR]
by kftkubo | 2012-06-16 12:56 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第13章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(5)・・・「飯島 魁」

第13章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(5)・・・「飯島 魁」

飯島魁(いいじま・いさお)
静岡の偉人
遠近国浜松(静岡県浜松市)生まれ。
文久元年(1861)6月17日-大正10年(1921)3月14日 80歳

c0239720_9574050.jpg


動物学者、魚類学者。
最初の動物学研究留学生。

開成学校を経て明治11年(1878)東京大学理学部生物学科に入学。
卒業後、お雇い外国人教師モースおよびホイットマンらの指導を受け、卒業後はドイツ・ライプチィヒ大学に留学。
日本最初の動物学研究留学生だった。
帰国後、明治19年(1886)東京帝国大学理科大学動物学教授、明治24年(1891)理学博士。
明治37年(1904)三崎臨海実験所所長(初代所長・箕作佳吉の死去をうけて第二代所長)。
おもに寄生虫類などを研究し、その感染経路を明らかにした。
広節裂頭条虫(こうせつれっとうじょうちゅう)の感染源の研究にあたり、自ら幼虫を試食し、体内で幼虫が発育して母虫となることを実証したというエピソードが残る。
明治21年(1888)に著した『人体寄生動物編』は、日本寄生虫学の原典となった。

また、明治24年(1891)鳥の和名を研究集成した『日本の鳥目録』を著し、鳥類学の草分けともなった。
明治45年(1912)5月、日本鳥学会を創設し初代会長をつとめるなど、日本における近代鳥類学の指導者であった。
さらに、動物学の教科書『動物学提要』を著し、この本はわが国における動物学の基礎を築いた名著とされている。
日本における水族館の発展にも貢献。
「日本の水族館の父」と称されている。

考古学にも興味を持ち、師モースの大森貝塚の発掘に参加した。
のち、陸平貝塚を発掘調査をして、大森貝塚とは異なる縄文土器の存在を明らかにした。


雨読晴釣山人(ペンネーム)について、本名 綾井 忠彦、日本釣魚連盟理事長の雑誌「釣の研究」昭和6年8月号に掲載されたもの。
「~奥日光湯本の鱒と白浜の黒鯛~」について

「不幸にして鑑札(勿驚一日四円)の時間が朝の八時から午後の五時ときめられて居り、監守の先生が馬鹿に宮内省カゼを吹かすので、肝心な日暮にやる事が出来ぬ。
併し裏には裏がある。
帝大教授理学博士の何某とか、法学博士何の誰とか云う御歴々が来ると、監守先生は必ず之を大目に見る様だから、山人は其御相伴をするか、づうづうしく其近所に行きてナイナイ其恩恵に浴した事もあるが、それは三ヶ月間の中で只二三回丈であった。」

前年昭和5年夏の76日間を子どもの皮膚病の温泉療法のために湯元で過ごした際の鱒釣り三昧を語っている。
鑑札が高すぎる、監視人がヤカマシイ(そのくせ帝大教授などには甘い)、餌釣りを禁じて毛鈎のみとせよ、尾数制限を設けよ、などなど悪く言ってしまえば「言いたい放題」、あえてFLY FISHERとしての身内びいきで言えば「進歩的」と思える発言が多々である。
こうした挑発的とも思える表現が綾井氏の持ち味であるようだ。
でもどこか憎めない。
なお、文中の帝大某理学博士は飯島魁氏、某法学博士は土方寧氏ではないかと思われる。
[PR]
by kftkubo | 2012-06-09 10:01 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」

第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」

赤星鉄馬(あかぼし てつま)

c0239720_20172937.jpg


1883年(明治16年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月9日
東京都出身の実業家。大正銀行頭取。
趣味は馬の研究と釣りとバラの栽培。新橋の花柳界では粋人として有名だった。
文部省(現文部科学省)管轄としては日本で初めての学術財団となる啓明会を設立し、当時の金額で100万円を奨学資金として投資した。
公害や乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川湖沼の再起のためにと、味がよく釣って面白い魚ということで、日本へブラックバスを移入させた。

赤星鉄馬氏は1901(明治34)年~1910(明治43)年の間、アメリカに留学していた。
その時にアメリカの友人達とキャンプに行った時、大きな湖でブラックバスを釣った。
日本に帰国後、山中湖湖畔に別荘を持っていた赤星氏は、たびたび訪れて漁民の生活を目の当りにしていた。
乱獲のために魚類が年々減少し、暮らしは楽なものではなかった。
山中湖に限らず全国的にも近代工業の発達に伴う自然破壊が進んでいる事を、赤星氏自身アメリカに留学した経験から日本と言う国を客観視できていた。
漁民を救済する為にマスの移植を計画しましたが、水温が適さない事がわかり、断念した。
その時、アメリカ留学中に知ったブラックバスなら、釣って面白く食べて美味い魚だということを体験していたから、山中湖で移植、繁殖させる事を考えた。
1913(大正2)年頃から大学教授や、農業関係者が渡米するたびに、ブラックバスの移入を依頼した。
しかし、目的は達せられず月日は過ぎるばかりだった。
親魚や稚魚を採集するには、時期的な問題、また適したフィールドを探す為の地理にも詳しく、うまくブラックバスを得る事が出来たとしても輸送を考えると至難極まりない事は誰もが理解できたはずだ。
何よりアメリカに精通している人物でなければ思うようには事は運ばない。
それから10年が過ぎようとしていた。

1923(大正12)年の末。
赤星氏は韓国の成歓で、成歓牧場を経営していた。
馬の研究にも余念なく、その為に牧場支配人杉沼氏を、純血のアラブ種馬を買うために、インド中西部のボンベイに派遣した。
赤星氏の意に叶ってその有能さを発揮した杉沼氏をヨーロッパやアメリカにも行かせ、更にアメリカのマサチューセッツ州の牧場で一年間実習をさせた。
その間に、ブラックバスを自分の手で移入する事を決意した。
しかし、またも壁は立ち塞かる。
当時アメリカ政府では、ブラックバスは特別な貴重魚として扱っていた。
輸出禁止だった。
しかし、諦めることなく、ならば学術研究にと東京帝国大学に依頼した。
やがてワシントンの政府当局の許可を得る事になり、移入計画が実行された。
おそらく牧場支配人杉沼氏がいなければブラックバス移入は実現していなかったかもしれないと赤星氏自身が後に語っているが、更に赤星鉄馬氏には強力な助っ人がアメリカに住んでいた。

「プリンス」「バロン(男爵)」などと呼ばれ「ワイン・キング長沢」の名をとどろかせ、1983(昭和58)年11月、レーガン大統領が来日した時、衆議院本会議場にての国会演説で
「1865年、ナガサワ・カナエというサムライ・スチューデントが日本をあとにし、西洋で学んだ。10年後、彼はカリフォルニア州サンタ・ローザで小さなワイナリーを開き、まもなくカリフォルニアのグレープ・キングとして知られるようになった。日米両国にとって、この元戦士のビジネスマンの功績は多大なものがある…」
最も成功した在米日本人と長沢鼎(ながさわかなえ)氏を称えた。
この頃長沢氏は世界的に有名な植物の発明王とも言われた園芸家ルーサー・バーバンクとも親しく付き合っていた。

長沢鼎氏は元薩摩藩士で藩の名門校、開成所で英語を学び、1865年、藩費留学生(19名)として五代友厚や森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。
鎖国中のことでもあり、幕府に対しての申し開きとして脱藩し密航して国外に出たという事として、19名すべて変名を名乗った。
または藩主から与えられたもので「長沢鼎」という名前もこの時に与えられたものである。
本名は「磯永彦助」である。
その後、イギリスからアメリカに渡り帰国しなかった彼は、生涯をこの名前のまま終えることになった。

薩摩藩士、天文方でもあった磯永孫四郎の4男。
本名「磯永彦助」。その弟が磯永弥之助である。
弥之助は赤星家の養子になる。
「赤星弥之助」。
その子供が赤星鉄馬氏である。
長沢氏は伯父にあたるわけである。
長沢氏の経営するぶどう園はカリフォルニア州サンタローザ市にあり、かつて長沢氏が師事したハリスがその地をファウンテン・グローブと名づけぶどう園もファウンテン・グローブ・ワイナリーとした。
長沢氏の死後、その資産は人手に渡るが、現在でもその地にその功績を窺い知ることができ、それはサンタローザ市庁舎にある自身の胸像や、パラダイスリッジワイナリーにある長沢ミュージアム、またファウンテン・グローブイン・ホテルの象徴として、かつて馬小屋として使っていた朱色の円形ドームが、その名残としてそびえています。
赤星鉄馬氏が伯父さんの長沢氏に依頼した時には、長沢氏は70歳を過ぎていたであろうと思われる。
長沢氏と杉沼氏が協力して一年がかりでブラックバスを採集したわけだが、長沢氏が高齢でもある為、使用人、或いは友人に依頼していたのかもしれない。
採集したブラックバスは長沢氏所有のぶどう園にあった池に貯めておいた。
ファウンテン・グローブ・レイクと呼ばれる湖は現存するが、記述では「小さな池」とあるので現在は残っていないかもしれない。
ただ、サンタローザ市にはバスフィッシング・ガイド業をしている方もいるし、たくさんある池、湖には、その頃の子孫のバスが悠々と泳いでいるかもしれない。

カリフォルニ州ソノマ群サンタローザ市ファウンテン・グローブ。
この地を拠点にブラックバス採集の為に、フィールドを駆け巡った人達がいて情熱を燃やした。
極めて慎重に、極めて大切に、より多くのブラックバスを採集する為の試行錯誤は連日続いたであろうし、討論も繰り返されたであろう。

1925(大正14)年5月、杉沼氏が帰国する時、純血のアラブ種馬、ジェルシイ乳牛、食用鳩等と共にブラックバスを持ち帰った。
帰国直前、サンタ・ローザ市の水道貯水池の水源である小滝の滝壺で幼魚を見つけ、ドクトル・ジョージ氏、ダブリュー・コンスタブル氏などの協力を得て、滝壺の水を汲み出して120~130匹の幼魚を捕獲した。

これまで採集したものを合わせて、220~230匹。
あとは日本まで無事に持ち帰るだけとなったが、サンタローザ市からサンフランシスコ港までの約100km、自動車で運搬し、東洋汽船コレア丸に積み込むまでに100匹近くが死んでしまった。
しかし航海は順調で5月28日早朝に無事横浜港に到着しました。
学術研究魚という名目の輸入でしたから、杉沼氏から東京帝国大学学部員にバトンタッチされ、久保氏、横屋氏、両農氏が受け取った。
ブラックバスは金魚桶に入れられ、小田原駅までは汽車輸送し、小田原から箱根町芦ノ湖までの約17kmは、人が担いで運搬した。
険しい道のりだったでしょうし、何より坂道でもあり、その17kmはサンタローザを出発してから最後の行程でもあり、最後にして立ちはばかる箱根の道は最も苦難に満ちていたように思う。

箱根町二カ村到着。
その道のりで3匹が死亡。
放流時には、赤星氏、東京大学関係者、東大名誉教授、日本学士院会員、雨宮育作博士も立合いには参加できず。
箱根町外二ヶ村役場歓業係の〆木勝蔵氏、地元の漁師田中三義氏の手で一匹づつ体長を目測で記録、33cm(2)、30cm(1)、9cm(88)、合計91匹このうち10匹を当時の箱根町長川辺儀三郎氏の提案で、箱根町の飯田栄吉氏所有の池に放つ。
日本では未知なる外来魚の生態等を、つぶさに観察できるようにと考えた。
かくして、1925(大正14)年6月22日に、78匹を芦ノ湖の西海岸箒が鼻に放流された。
この時の東京帝国大学の資料では、大きいもの3匹、小さいもの87匹、合計90匹、内、小さいもの10匹は飯田栄吉氏所有の池に放流とあり、箱根町組合役場保管資料では、合計91匹。
いずれにしても最初に放たれたという数と合わないが、放たれた時は78匹なのであろう。
約一年後の1926(大正15)年6月18日付、東京帝国大学農学部水産動物学教室より川辺町長宛の文書にて、飯田栄吉氏所有の池に放たれて生存していた6匹が、帝国大学の指示によって芦ノ湖に放流されている。

【山中湖から芦ノ湖に・・・】
冒頭に記述しているように、当初赤星氏は山中湖の漁民救済の為にと考えていましたが、芦ノ湖に変わった理由は、まずこの移入に関して東京帝国大学の学術研究魚としてアメリカ政府の許可を得たことにより、すべてを東京帝国大学側に一任した。
赤星氏も韓国に居たこともあり、任せるしかなかったともいえるが、これはあえて韓国に居る事で移入を順調に運ぶ為の配慮だったかもしれない。
東京帝国大学では芦ノ湖に淡水魚実験所もある上に、他の水系と絶縁されていて、他の淡水区域に移行分布できないという地理的な理由があり、ブラックバスが驚異的な繁殖をしたとしても心配する事がなかった。
芦ノ湖でもマス類の繁殖は湖を管理する帝室林野局が行ってきたが、芦ノ湖は適さないのではと考えられるようになっていた。
そのように地理的、時期的なこともあり芦ノ湖が選ばれたのであろう。

【芦ノ湖に移入後】
この頃すでにブラックバスは害魚だという非難もあったが、現在、芦ノ湖ではワカサギ、トラウト、ブラックバス、それぞれの釣りがされていてそれぞれのバランスが保たれているように思う。
1926(大正15)年5月22日 ・・・箱根町の川口庄之助氏が箱根遊船会社出張所の桟橋近くで大きなバス3匹を確認。
1926(大正15)年6月14日 ・・・21~24cmのバスが20~30匹ずつ泳いでいる群れを確認。
1927(昭和2)年10月4日 ・・・ブラックバスがよく釣れたと報告あり。
1927(昭和2)年11月12日 ・・・4日間の調査を行った結果、捕獲された24cm、8,9cmのバスはいずれも芦ノ湖で繁殖した個体である事が確認された。
1972(昭和47)年 ・・・・・・アメリカ政府の協力の下、ツネミ・新東亜グループがガルシア社の仲介の元ペンシルベニアからバスを空輸し、5000匹余りが芦ノ湖に放流された。
[PR]
by kftkubo | 2012-05-30 20:18 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第11章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(3)・・・「鍋島 桂次郎」

第11章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(3)・・・「鍋島 桂次郎」

1912年 各界要人が鱒釣りを楽しむ倶楽部「丸沼鱒釣会」が発起人 鍋島桂次郎により発足。

1860-1933 明治-大正時代の外交官。
万延元年5月生まれ。
外務省にはいり,公使館一等書記官となり,米・独・英に勤務。韓国統監府の参与官をへて,明治42年ベルギー公使。
「丸沼鱒釣会」の発起人。
大正5年貴族院議員。
昭和8年1月30日死去。
74歳。肥前長崎出身。

c0239720_2051583.jpg


日光には多数の欧米外交官や日本の政府要人が集まる避暑地だった。
箱根が外国人の避暑地として利用されていたことは、全国的に知られているが、日光が箱根よりも先に外国人を向かえ、戦前のある時期まで、カントリークラブがあったことは、あまり知られていないようである。

1870年 英国特命全権公使ハリーパークスが日光を訪問
1872年 英国公使館書記官アーネスト・サトウが日光を訪問
1874年 「ア ガイドブック ツウ ニッコウ」ジャパン・メイル社から発行
1887年 訪問外国人1000人を超える日本政府司法省法律顧問ウイリアム・M・H・カークード中禅寺湖畔に別荘を建てる
1888年 日光ホテル開業
1894年 中禅寺湖畔にレークサイド・ホテル開業
1900年ごろ 駐日外交官・政府関係外国高官の避暑地として確立
1912年 「丸沼鱒釣会」(発起人 鍋島桂次郎)各界要人が鱒釣りを楽しむ倶楽部
1924年 東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部、在日外国高官や著名人の別荘仲間、皇族、華族、政財学界要人が交流する社交場が発足。国際的避暑別荘地として最盛期を迎える。会員は英国式のフライ・フィッシングを楽しむ。
1929年 英国グロスター公、中禅寺湖畔の別荘を訪問

しかし、この後、日本は上海事変などを引き起こし、戦争への道を辿ることになる。
やがて、日本は欧米と敵対することになり、日光から外国人の姿が消えていくのであった。
大戦に突入するとともに、外国人の別荘は閉鎖されていった。
現在は、中禅寺湖畔に、英国、フランス、ベルギー、イタリアなどの大使館別荘が名残をととめているばかりである。
「夏場は外務省が日光に移動している」といわれたことも、今では夢のような伝説になってしまった。
栄枯盛衰は世のならいとはいうものの、ひとつの地域も、あるときに栄え、そして廃れていくのである。
[PR]
by kftkubo | 2012-05-22 20:52 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

丸沼の鱒釣り -思い出すまま- (全文) (土方 寧 大正8年)について

法学博士 土方 寧 1859~1940) 東京帝国大学教授 民法学者
雑誌「釣の趣味」(大正8年9月号)収載

c0239720_22583251.jpg


私が釣魚を始めたのは、恰度今から三二三年前の明治二十年頃であった。
その頃は品川湾の釣魚が今よりもずっと盛んだった。
今は隅田川の沿岸から種々な汚物が流れ寄って穢ないから、たんと出かけないが、その当時は未だ海も清潔だったし、方々から大勢釣魚者が集まって面白かったから私もよく脚立づりと云うのを遣ったものだ。
船を海の浅瀬に片寄せて積んできた脚立(折り畳むそうな仕掛になったもの)を水中に立て、それに乗り移って釣糸をたれると云う方法なのであるが、多くは梅雨の頃で、昼になると南の風が出て浅瀬が荒れ濁るから、昼間は釣れないものとされ、朝は出きるだけ早くから始めて、まづ正午前まで釣るのが一番漁があった。
で、一度釣魚に出掛けるとなると、釣る時間の短い割合に空しくその一日を潰して了〔しま〕わねばならぬつまり朝暗いうちから起きると、なると自然前の晩は殆ど眠れないし、釣魚から帰った午後も疲労と眠気とで茫乎〔ぼんやり〕して何も手につかぬと云う風でかなり、不便も感じないではなかったが、しかし、又一面から云うと、小暗い夜明前から海に出て、ひやりとした暁の海風に肌を晒しながら、四時頃になってほのぼのと水面の明ろくなるのを待って釣りはじめる、あの爽やかな心持は実に云〔なん〕とも云えない。
十月時分になると、私はよく海苔ひびの近くへ船を遣って、麦畑の畝のように立ち列〔なら〕んでいる竹垣の中間に釣糸を投げて、鯔〔ぼら〕や黒鯛を釣ったものである。
こうして、明治三十年頃まで約十年間くらい釣魚を続けたが、その後二十七年頃から鉄砲猟を始めるようになって、品川湾の釣魚はながく中絶して了った。
ところが、この鉄砲猟も明治天皇崩御の諒闇中に止めて以来、気抜けがして了って、今に出かけない。

そこで元の釣魚道楽が復活して、今日の日光丸沼の鱒つりとなったのである。
この日光の鱒つりの話をすれば、勢い現在吾々仲間の遣って居る(鱒釣り會)の由来も明らかになる訳かだら〔原文ママ。「だから」の誤植〕、少し許〔ばか〕り思い出すままに話して見よう。
日光に遊んだ者は、誰でも湯元から中禅寺湖に注いでいる湯川を知っているであろう。
この川は蜿々〔えんえん〕と曲がり曲がって二里余りであるが、その中禅寺湖へ注ぐ川口を菖蒲浜と読んで居る。
ここに、十四五年前、当時の宮内省御料局(今の帝室林野局)の経営にかかる魚の養殖場が設けられて、湯川と湖とに鱒を放養した。
鱒の種類もいろいろあるが、この時分養殖されたのは、アメリカ産の虹鱒(Rainbow trout)と云うので、繁殖の極めて旺〔さか〕んな種族であった。
胴の両側に虹のような斑紋があるので、この名が出たのである。

かくしてこの養殖場では、湯川で一日一円、中禅寺湖で一日五十銭の料金を徴して誰にでも釣ることを許可したのである。
ところが、七年程前、鉄砲猟や釣魚の友達で、私と極く仲の善い貴族院議員の鍋島桂次郎氏が、これも外交官出で以前仏蘭西大使を勤めた栗野子爵と同伴で、この湯川へ釣りに行ったことがある。
『大変面白いところだから是非案内しよう』と私は勧められた。
恰度八月の初旬であった。
私は鍋島氏に伴われて、湯川に行って見たが。
一向に釣れない。
鍋島氏も気を揉ん。
『いや漁不漁のあることだから仕事〔原文ママ。「仕方」か?〕がない。
しかし、何とかして小気味よく釣らせたいものだな』などなど気の毒がった。
実際初めての場所で、初めての時に釣れないことは、せっかくの弾みを抜かして了う。
氏はそれを心配したのだ。
ところが吾々は、中禅寺湖で「湯本〔原文ママ。「湯元」か?〕から山越しで三里程行くと上州の方へ降るところに、丸沼と云う湖水がある。その湖水へ行くと素晴らしく釣れる。」と云う噂を耳にした。
で、吾々は直ぐにも行って見る気になった。

そのときの話では、何でも群馬県の富豪の千明氏が、水産講習所と共同してその丸沼に鱒を飼養していると云うことであったが、何しろ丸沼と云うところは、湯本へ三里、上州の人家へ三里と云う深山の無人境で、養殖場にも一棟の家がある許り、泊るに夜具もなければ、食事の用意もあるまいと云うので、吾々は出発するに先立ち、湯本まで行って、米や味噌や缶詰などを買い求めて人足に持たせさて、丸沼に向かったが、その山路の険しいことと云ったらなかった。殆ど道らしいものとてはなく、夜の通行は無論のこと、馬さえ歩行の出来ないところを、或は荊棘〔いばら〕を繰〔くぐ〕り、或は乗り越えつ、或は匍〔は〕いつして、漸く目的地に着いたが、この時は千明氏の令閨がどこでか私どもの企てを聞いて出迎いにまで出て下さったので兵糧-宿泊までの用意万端心を用いて要がなくなった。
早速その湖水に釣糸を垂れたが、釣れること、釣れること、実に面白かった。
湯川の不漁をここで十分に償って、私達は喜び勇んで帰京した。

この愉快な釣りに味をしめて、その翌年で鍋島氏と語って丸沼へ行った。
今度も却々〔なかなか〕の漁があった。
で、東京倶楽部の一員たる鍋島氏はこの吉報を齎〔もた〕らして、倶楽部員間に吹聴したので「そりゃ面白いぜひ釣りに行こう」と云う人が続々と出た。
終に、釣魚仲間が出来、同志語って日光の鱒釣り會を作ったのであった。
これが新聞などで大袈裟に噂されるようになったのだが、つまりは鍋島氏と私とが丸沼に探検的な釣りを試みたのがそもそもの動機で、足掛三年目にこの會の成立となったのである。

鱒釣會の會員は、始め十幾人で、今村繁三氏、赤星鉄馬氏、西園寺八郎氏、伊集院子爵(今は退会)飯島魁氏、鍋島桂次郎氏と私などであった。
會員の中には釣魚に初心な人もあって、西洋流の釣竿を英国へ注文するやら、特別注文の竿を名題の職人に誂〔あつら〕えるやら、皆大いに弾み出した。
が未だ行かぬ人もある。
憲政会総裁の加藤男も會長と云うことになって居るが、往復に日数を要するところから、激務に寸暇なく、まだ一度も行かぬが、何しろ金のある人々の集りだから、その後丸沼の魚釣場には、種々の設備が出来て、近頃は頗る便利となり、したがって釣りも盛んになって来た。
會が出来てから恰度七年になる。
會員も増加して今では二十幾人になった。
岩崎小弥太男、古河虎之助氏なども入會している。

一昨年は「宿が一陳では不便だから」と云うので、今村氏と赤星氏とが協力して、更に一陳、家を丸沼に新築することになった。
その建築用の木材は、千明氏の寄附で、持山の生木を伐ったものである。
各年〔原文ママ。「昨年」か?〕年の暮に、その新築が成った。
一万三千円からの経費をかけた立派な家で、温泉も引こうと云う計画もあったようだ。

今では主として今村氏が會の世話を焼いて呉れている。
何時かも氏が態々〔わざわざ〕東京から料理人を連れて来て山中とは思えぬ贅沢な食事を調理させたりした。
が、余り贅沢すぎるので、その後は湯本の板屋と云う温泉宿の主人に托して、あまり贅沢でない。
野趣のある料理をつくらせて食べた。

七月八月を漁期として、會員は随時避暑かたがた釣りに行ける
こう云う訳で、今では万事万旦便利になって、頗る結構は結構だが、釣魚の趣味から云えば、寧ろ不便でも閑寂で野趣の漲った気分の方が貴いと云う者もある。
この丸沼には目下虹鱒のほかに姫鱒と云う日本種の鱒が居るこの姫鱒は食膳に上して頗る美味であるが、あまり弘〔ひろ〕く生存しない。
今では方々にこの種の鱒を飼養している。
秋田県の十和田湖にも盛んに繁殖させているが、先年丸沼に虹鱒を繁殖させていた技手が、北海道の或る湖から、この姫鱒を丸沼に移して放養したので、今では虹、姫二種の鱒が釣れる、訳であるが、この人が最近栃木県庁の技手になって赴任したので、その後任者がいないのに困っている。
この技手は頗る特志な人で十年近く丸沼に止まって鱒の養殖に従事したのだが、虹鱒の卵を撒くのは極寒で、雪の山籠りの侘しさは並大抵でない丸沼は何処へも交通が杜絶えるのであるから、余程の特志家でないと辛抱が出来ない訳で、未だに志望者を得ない始末である交通杜絶で思い出したが、最初私達が行路難を感じた山路は、その後會員が據金して修繕したので、今では夜間も提灯があれば歩けるし、馬で踏み入ることも出来るし、危険はなくなったことに先年北白川宮が吾々の鱒釣りを許可〔おみみ〕にせられ、御微行で丸沼にお越しになった時、県庁の方で倉皇〔きょこう〕として道路の修理にかかったので、吾々は今思わぬ余慶を蒙って非常に喜んでいる、北白川宮の御来臨のあった時は、英国で盛んに練習して来たかばり釣りの名人鍋島桂次郎氏が御同乗申して、小舟で湖水を乗り廻し、更に七八間離れて、私が別の舟で投げ釣りを試みたが、その日は一向に食わなかった。
その前日から宮様の御来臨を仄聞した吾々は、湖を荒らさずに置いた甲斐もなく、生憎なことであった。天候気温の加減で、余程漁に違いがあるので、何とも致し方がなかった。

吾々の鱒釣りの根拠地丸沼の外に、菅沼、瓢箪沼と云うのがあるから一寸紹介しよう。
湯本から山越えで一里余進むと山頂に金精峠と云うのがある。
栃木県と群馬県との境で、海抜約五千幾百尺、この峠を下ると海抜五千尺位の処に菅沼がある。
更らに下ると件の丸沼があり、丸沼から二十間位の長さの掘割のような谷川に続いて下の方に瓢箪沼がある、菅沼は丸沼より三四倍の大きな湖で姫鱒がいる。
千明氏が網で捕らせて日光の街へ売り出している。
瓢箪沼も丸沼より大きい湖だが、鯉や鮒などは居るが、草の多い所為で鱒はいない。
尚釣魚の出来る谷川では大瀧川と云うのがある。
湯川よりも大きく、目下この川一里あまりは手続を済まして釣りの占有権を持って漁番をしている。
しかし釣り者にとって面白いのは、何と云っても丸沼でことに虹鱒のかばり釣りである。
丸沼のは前述のように虹鱒と姫鱒との二種がいるが、この姫鱒と云う奴は殊に川を嫌って湖水を好み、それもずっと深みにいる會員の一人飯島氏は動物学者の立場から、「この姫鱒は鱒と云ううち、鮭に近いもので、多分海から湖水へ流れ上って来て、海へ下れずして湖に居残ったものだろう」その推測を下しているが、兎に角この鱒は深みにいるから餌を沈めて釣る、跳ね回って却々〔なかなか〕荒れる魚であるが、釣りのなぐさみから云えば虹鱒に如かぬ。
虹鱒は川を好み、水面に浮いて来る魚で、かばりで釣る、殊に蝶や蛾や蟲類を巧妙に鈎に細工した。西洋式のかばりで釣ると、一段の趣きがある。
湖水の場合は小舟で湖上に乗り廻して、かばりを十間位先へ投げる、竿は一間半にも足らず、なまりもないのに、投げ方がうまいと、いくらでも遠方へ鈎が飛んで行く。
その投げ方の巧拙に面白味がある上に、水面に浮いて来た虹鱒の鈎にかかるのが舟の上から見られるし、かかつた魚を手許の糸捲で、糸を捲いて引き寄せる間の興味もあって、却々に趣きの深いものである。

今年の夏は私は、丸沼に十日許り逗留して土方久徴氏と倶に釣ったが大漁で、一日に百幾匹も釣った。
今村氏、飯島氏、田中氏(前満鉄理事)なども行ったまた今度巴里の講和会議の晴の舞台から帰った西園寺八郎氏も却々熱心な會員で、九月に行くと云って居る段々に會の旺んになるのは結構なことだ。
何しろ、丸沼は深山の別天地で、東京市中で九十度に昇る酷暑の日も、この地は七十度位のもので、空気が乾燥して涼しく、随って蚊も居なければ虱〔原文では「のみ」のルビあり〕も居らぬ。
好箇の健康地と云って差支えない。
今村氏の云う如く、真に繁忙な実業家が俗事を忘れて、命の洗濯とするのに、この山中の釣魚くらいいいものはないと思う。


本書は、雑誌「釣の趣味」大正8年9月号に寄稿されたもの。
著者の死後50年経過により著作権期間が満了。
全文を掲載。
なお、原文はルビで読み仮名がふられているが読みが困難なものを除き原則として省略した。
また、旧漢字・旧仮名使いを適宜現代文に改めている。

土方寧

民法・イギリス法学者。
土佐(高知県)に安政6年2月12日生まれ。
1859-1939 明治-昭和時代前期の法学者。
東京大学法学部を卒業した。
民法を専攻し,イギリスに留学。
1883年(明治16)同大学の助教授となり、1887年にはイギリスに留学し、バリスター(法廷弁護士)の資格をとった。
1891年帰国し、教授に進み、1925年(大正14)までその職にあった。
民法典編纂(へんさん)以後の、わが国におけるイギリス法研究の代表的存在とされる。
また、1885年には、英吉利法律学校(イギリスほうりつがっこう)(現在の中央大学)の創立に力を尽くした。
明治24年帝国大学教授となり,44年東京帝大法科大学長。
英法の研究に道をひらいた。
18年開校の英吉利(イギリス)法律学校(現中央大)の創立者のひとり。
大正11年貴族院議員。
昭和14年5月18日死去。
81歳。
1939年(昭和14)北支派遣軍慰問中、天津(てんしん)に客死した。
著書に『英国契約法』(1887)、『英国流通証券法』(1888)がある。
[PR]
by kftkubo | 2012-05-18 22:50 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第9章 三菱財閥の創業者で初代総帥「岩崎 弥太郎」と「トーマス・ブレイク・グラバー」

第9章 三菱財閥の創業者で初代総帥「岩崎 弥太郎」と「トーマス・ブレイク・グラバー」

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)
天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)
日本の実業家。
三菱財閥の創業者で初代総帥。
明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。
諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。

c0239720_19573866.png


土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎(やじろう、1808年 - 1873年)と美和の長男として生まれる。
地下浪人とは、郷士の株を売ってしまって浪人をしている者のことで、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門の代に郷士の株を売ったと言われている。
幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。
21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾する。

安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。
父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業に手を染める機縁となった。
出獄後は村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。
東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
この頃、27歳で弥太郎は長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。
土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。
しかし、必要な届出に不備があった事を咎められ帰国した。
尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる。
この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎は九死に一生を得ている。
帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。

慶応3年(1867年)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。
坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。
記録上確認出来る弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。
弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。
この時「坂本龍馬」と「岩崎弥太郎」は長崎で「トーマス・ブレイク・グラバー」に会っていたと思われる。

明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。
明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。
このころ、土佐屋善兵衛を称している。
廃藩置県後の
明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。

三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。
この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマーク「スリーダイヤ」を作ったことはつとに有名である。
三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。
弥太郎は最初から政商として暗躍した。

三菱商会は、
明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。
明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。
政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。
しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。
農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺される。
明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚し、弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
また、パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。
こうしたライバルとの競争の最中、
明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。
このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
明治14年(1881年)官営事業払い下げで三菱の「岩崎弥太郎」が高島炭鉱を買収してからも「トーマス・ブレイク・グラバー」は所長として経営に当たった。
明治18年(1885年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒の基礎を築いた。

明治20年代にグラバー商会は倒産し、グラバーは三菱財閥の顧問として上京した。
グラバーは、東京の夏の蒸し暑さから逃げるように、当時避暑地として注目されていた日光へと向かう。
中禅寺湖漁業組合総代の大島籐三郎がグラバーの世話をした。
その息子・久治がグラバーと親しくなり、やがてグラバーに預けられ、教育を受けることになる。

岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。
三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。
家紋は重ね三階菱。
弥太郎には多くの子供がいるが、正妻・喜勢との間に生まれたのは長女・春路(加藤高明夫人)、長男・久弥、次女・磯路(木内重四郎夫人)の3人のみである。
次男・豊弥は養子(実父は郷純造)、他の子供は弥太郎と妾(弥太郎の死亡当時6人いた)との間に生まれた子供たちである。
なお弥太郎の死後、嫡男・久弥が父・弥太郎の業績に対し男爵を授けられた。
岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。
なお弥太郎の娘婿4人の中から、加藤高明及び幣原喜重郎の2人が内閣総理大臣となっている。
単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。
孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがいる。
曾孫には鎮西清高(地球科学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく地球科学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務めた岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の4代目当主)、寛弥の従姉で元良誠三(工学者、東京大学名誉教授)の妻・由美子や由美子の妹で槙原稔(元三菱商事社長)の妻・喜久子らがいる。
[PR]
by kftkubo | 2012-05-10 19:57 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第8章 中禅寺湖におけ移殖と放流の歴史

第8章 中禅寺湖におけ移殖と放流の歴史

中禅寺湖を代表とする奥日光の湖沼と河川には、古来より魚類が生息していなかったといわれている。
これは、中禅寺湖から流出する大谷川の下流約500m地点にある落差約100mの華厳滝によって、下流から魚類が上ってくることが妨げられたためである。
また、古来この地域は男体山を御神体とする二荒神社の社域で、宗教的霊地として殺生、他所からの動物類の持ち込み、移殖、放流などは固く禁じられていた。
古い記録ではカエルやイモリなどの両生類のみが見られた程度であったといわれている。

1873年(明治6年)に、当時の二荒山神社の宮司であった柿沼広身がこの宗教的戒律を解いて中禅寺湖への魚類の放流を許し、日光・細尾の住人星野定五郎が附近のイワナ2,200尾を最初に放流した。

1874年(明治7年)には、二荒山神社の宮司、柿沼広身が中禅寺湖にコイ20,000尾、フナ2,000尾、星野吉平がウナギ300尾、星野定五郎がドジョウ500尾を放流したとしている。

1881年(明治14年)に当時の農商務省は、いろは坂下の深沢にふ化場を設置。

1882年(明治15年)に琵琶湖からビワマス(アメノウオ)、北海道からマス卵(サクラマス)を移入し、ふ化放流を実施した。

「第1期日光養魚場報告(明治39年)」によれば、農商務省の施設に係るふ化放流の事業は1884年(明治17年)まで継続し3年にわたった。
その結果、魚類の養殖の成績は良く、中禅寺湖や渓流のいたるところで魚類の遊泳が見られたが、禁漁を犯す者があった。

1885年(明治18年)地元の有志が、栃木県の許可を得て漁業組合を組織し、魚類の繁殖保護を図り、また漁場、漁具等を制限し、永遠に利益を増進することを目的とする規約を設けた。

1887年(明治20年)にはカリフォルニア(アメリカ)からニジマス4,000尾が中禅寺湖に放流されている。

1907年(明治40年)当時の帝室林野管理局所管の養魚場でニジマスの養殖が始まった。
アメリカのコロラド州から82,100粒の発眼卵が到着した。
その後明治41年、明治42年、明治43年、明治45年と合わせて5回にわたって合計417,100粒が入ったが、現在の養殖研究所日光支所で飼育されているニジマスはその子孫である。
明治時代に移植されたものが今日まで一世紀近くもその系統を保ち続けているだけに遺伝資源としても貴重な魚である。

その後、明治年代において、ビワマス(アメノウオ)が琵琶湖から、ニジマスがカリフォルニア州(アメリカ合衆国)から、カワマスがコロラド州(アメリカ合衆国)から、ヒメマスが北海道の支笏湖と秋田県の十和田湖から移殖された。
閉鎖的な水域に移殖された魚類が定着するまでには長期にわたる人工増殖が必要で、現在でもこの努力は続いている。
現在、奥日光に生息する魚類はすべて移殖・放流によるものである。
明治初期からの140年にもわたる奥日光水域への移殖、放流の歴史は、我が国における冷水性魚類の人工増殖史として、貴重なものである。
中禅寺湖、湯ノ湖、湯川の奥日光水域における140年間にわたる移殖、放流の歴史である。

2011年3月の福島第1原発事故による放射能汚染により中禅寺湖におけ移殖と放流の歴史に最大の危機に直面している。
2011年の解禁はできたが、2012年3月に栃木県からの解禁延期要請を受け入れるとの発表があった。
今後の展開を慎重に見守りたいと思う。
c0239720_20343169.jpg

レイクトラウトが怒っています。
[PR]
by kftkubo | 2012-03-25 20:35 | フライフィッシングの夜明け | Comments(2)

第7章 トーマス・ブレイク・グラバー 

第7章 トーマス・ブレイク・グラバー 

1838年6月6日 - 1911年12月16日
スコットランド出身の商人。
武器商人として幕末の日本で活躍した。
日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした。
維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。

スコットランド・アバディーンシャイアで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバーとメアリーの間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。
ギムナジウムを卒業した後、1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。
同年9月19日(安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理人として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。
当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。
亀山社中とも取引を行った。
また、薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。
1865年4月12日(元治2年3月17)には、大浦海岸において蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせた。
本業の商売にも力を注ぎ、1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。
1868年(明治元年)には肥前藩と契約して高島炭鉱開発に着手。
さらに、長崎の小菅に船工場を造った。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。
グラバー自身は高島炭鉱の実質的経営者として日本に留まった。
1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。
また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒の基礎を築いた。
私生活では五代友厚の紹介で、ツルとの間に長女ハナをもうけている。
また、息子に倉場富三郎がいる。
晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。
1911年(明治44年)に死去。
墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。
ツルとともに埋葬されており、息子の富三郎夫妻の墓とは隣同士である。
邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在は長崎の観光名所となっている。

太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。
キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。
スコットランド系フリーメイソンリーといわれるが、根拠はない。
なお日本のフリーメーソン設立(横浜ロッジ)も1866年(慶応2年)といわれ(薩長同盟もこの年)可能性は否定出来ない。
(ウィキペディアより引用)

c0239720_19533355.jpg


グラバー商会倒産後、グラバーは三菱財閥の顧問として上京した。
グラバーは、東京の夏の蒸し暑さから逃げるように、当時避暑地として注目されていた日光へと向かう。
中禅寺湖漁業組合総代の大島籐三郎がグラバーの世話をした。
その息子・久治がグラバーと親しくなり、やがてグラバーに預けられ、教育を受けることになる。
明治35年に日英同盟が締結された際、グラバーは記念として、中禅寺湖に流れ込む湯川にアメリカ産の川鱒を放流するという贈り物をしたが、水害で全滅してしまう。
グラバーは明治37年にふたたび川鱒を放流し、それで根付いた。
この時期にグラバーとその仲間たちが奥日光でフライフィッシングを始めたと思われる。
[PR]
by kftkubo | 2012-03-23 19:55 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第6章 二人の「釣師」の出会い ~ 大島久治とグラバー

第6章 二人の「釣師」の出会い ~ 大島久治とグラバー

何の因果か、去年の中禅寺湖の解禁を知らせるポスターに大島久治とグラバーの写真が使われたのだろうか?
二人は2012年の私たちに何か言いたいことでもあったのだろうか。

今回は大島久治とグラバーについて検索してみた。

c0239720_17184190.jpg


グラバーは、東京で奥日光中禅寺湖の評判を耳にし、いつか訪れたいと思っていた。
おりしも明治二三年夏には、上野-日光間に日本鉄道会社の鉄道が開通した。
グラバーが日光へ向かう。
鱒釣りのために中禅寺湖を訪れたグラバーが、大島藤三郎と出会うのに、時間はかからなかった。
仕事柄、大島藤三郎は釣りばかりでなく地元のことなら何にでもよく通じている。
そのうえ性格は質実剛健、開拓精神に溢れた武士の魂を持っている人物だ。
グラバーはかつて長崎で出会った薩長南藩の気骨ある若い侍たちと相通じるものを大島藤三郎に感じ、すっかり意気投合した。
グラバーは漁業組合の事務所も兼ねる大島藤三郎の家に間借りして過ごし、それから間もなくして中禅寺湖畔の大崎に小さな平屋の別荘を建てた。
当時は、外国人が内地に土地を所有することは認められていない。
しかしすでに湖畔には、明治二〇年に新築した初の外国人別荘が建っていた。
その主は、ジャパン・ブリユワリー・カンパニー・リミテッド設立の際ともに奔走した旧友、カークードであった。
鱒釣り三味の夏
大島藤三郎夫婦の間には明治十四年生まれの次男、大島久治がいた。
彼は後々までグラバーに可愛がられ、一緒に鱒釣りを楽しみ、夏を過ごす仲になるのだが、グラバーが大島家へ気さくに出入りし始めた時分、まだ子どもの久治にはグラバーが何者かなどわかるはずもなく、父親の親しい釣り仲間ほどに思っていた。
ただ、グラバーの持ち込む西洋の珍しい毛バリヤ釣り道具に目を輝かせていた。
(「日光避暑地物語」福田和美 著 より引用)
[PR]
by kftkubo | 2012-03-20 17:20 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)