フィッシャーマンのためのフィッシングカフェ


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第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」

第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」

赤星鉄馬(あかぼし てつま)

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1883年(明治16年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月9日
東京都出身の実業家。大正銀行頭取。
趣味は馬の研究と釣りとバラの栽培。新橋の花柳界では粋人として有名だった。
文部省(現文部科学省)管轄としては日本で初めての学術財団となる啓明会を設立し、当時の金額で100万円を奨学資金として投資した。
公害や乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川湖沼の再起のためにと、味がよく釣って面白い魚ということで、日本へブラックバスを移入させた。

赤星鉄馬氏は1901(明治34)年~1910(明治43)年の間、アメリカに留学していた。
その時にアメリカの友人達とキャンプに行った時、大きな湖でブラックバスを釣った。
日本に帰国後、山中湖湖畔に別荘を持っていた赤星氏は、たびたび訪れて漁民の生活を目の当りにしていた。
乱獲のために魚類が年々減少し、暮らしは楽なものではなかった。
山中湖に限らず全国的にも近代工業の発達に伴う自然破壊が進んでいる事を、赤星氏自身アメリカに留学した経験から日本と言う国を客観視できていた。
漁民を救済する為にマスの移植を計画しましたが、水温が適さない事がわかり、断念した。
その時、アメリカ留学中に知ったブラックバスなら、釣って面白く食べて美味い魚だということを体験していたから、山中湖で移植、繁殖させる事を考えた。
1913(大正2)年頃から大学教授や、農業関係者が渡米するたびに、ブラックバスの移入を依頼した。
しかし、目的は達せられず月日は過ぎるばかりだった。
親魚や稚魚を採集するには、時期的な問題、また適したフィールドを探す為の地理にも詳しく、うまくブラックバスを得る事が出来たとしても輸送を考えると至難極まりない事は誰もが理解できたはずだ。
何よりアメリカに精通している人物でなければ思うようには事は運ばない。
それから10年が過ぎようとしていた。

1923(大正12)年の末。
赤星氏は韓国の成歓で、成歓牧場を経営していた。
馬の研究にも余念なく、その為に牧場支配人杉沼氏を、純血のアラブ種馬を買うために、インド中西部のボンベイに派遣した。
赤星氏の意に叶ってその有能さを発揮した杉沼氏をヨーロッパやアメリカにも行かせ、更にアメリカのマサチューセッツ州の牧場で一年間実習をさせた。
その間に、ブラックバスを自分の手で移入する事を決意した。
しかし、またも壁は立ち塞かる。
当時アメリカ政府では、ブラックバスは特別な貴重魚として扱っていた。
輸出禁止だった。
しかし、諦めることなく、ならば学術研究にと東京帝国大学に依頼した。
やがてワシントンの政府当局の許可を得る事になり、移入計画が実行された。
おそらく牧場支配人杉沼氏がいなければブラックバス移入は実現していなかったかもしれないと赤星氏自身が後に語っているが、更に赤星鉄馬氏には強力な助っ人がアメリカに住んでいた。

「プリンス」「バロン(男爵)」などと呼ばれ「ワイン・キング長沢」の名をとどろかせ、1983(昭和58)年11月、レーガン大統領が来日した時、衆議院本会議場にての国会演説で
「1865年、ナガサワ・カナエというサムライ・スチューデントが日本をあとにし、西洋で学んだ。10年後、彼はカリフォルニア州サンタ・ローザで小さなワイナリーを開き、まもなくカリフォルニアのグレープ・キングとして知られるようになった。日米両国にとって、この元戦士のビジネスマンの功績は多大なものがある…」
最も成功した在米日本人と長沢鼎(ながさわかなえ)氏を称えた。
この頃長沢氏は世界的に有名な植物の発明王とも言われた園芸家ルーサー・バーバンクとも親しく付き合っていた。

長沢鼎氏は元薩摩藩士で藩の名門校、開成所で英語を学び、1865年、藩費留学生(19名)として五代友厚や森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。
鎖国中のことでもあり、幕府に対しての申し開きとして脱藩し密航して国外に出たという事として、19名すべて変名を名乗った。
または藩主から与えられたもので「長沢鼎」という名前もこの時に与えられたものである。
本名は「磯永彦助」である。
その後、イギリスからアメリカに渡り帰国しなかった彼は、生涯をこの名前のまま終えることになった。

薩摩藩士、天文方でもあった磯永孫四郎の4男。
本名「磯永彦助」。その弟が磯永弥之助である。
弥之助は赤星家の養子になる。
「赤星弥之助」。
その子供が赤星鉄馬氏である。
長沢氏は伯父にあたるわけである。
長沢氏の経営するぶどう園はカリフォルニア州サンタローザ市にあり、かつて長沢氏が師事したハリスがその地をファウンテン・グローブと名づけぶどう園もファウンテン・グローブ・ワイナリーとした。
長沢氏の死後、その資産は人手に渡るが、現在でもその地にその功績を窺い知ることができ、それはサンタローザ市庁舎にある自身の胸像や、パラダイスリッジワイナリーにある長沢ミュージアム、またファウンテン・グローブイン・ホテルの象徴として、かつて馬小屋として使っていた朱色の円形ドームが、その名残としてそびえています。
赤星鉄馬氏が伯父さんの長沢氏に依頼した時には、長沢氏は70歳を過ぎていたであろうと思われる。
長沢氏と杉沼氏が協力して一年がかりでブラックバスを採集したわけだが、長沢氏が高齢でもある為、使用人、或いは友人に依頼していたのかもしれない。
採集したブラックバスは長沢氏所有のぶどう園にあった池に貯めておいた。
ファウンテン・グローブ・レイクと呼ばれる湖は現存するが、記述では「小さな池」とあるので現在は残っていないかもしれない。
ただ、サンタローザ市にはバスフィッシング・ガイド業をしている方もいるし、たくさんある池、湖には、その頃の子孫のバスが悠々と泳いでいるかもしれない。

カリフォルニ州ソノマ群サンタローザ市ファウンテン・グローブ。
この地を拠点にブラックバス採集の為に、フィールドを駆け巡った人達がいて情熱を燃やした。
極めて慎重に、極めて大切に、より多くのブラックバスを採集する為の試行錯誤は連日続いたであろうし、討論も繰り返されたであろう。

1925(大正14)年5月、杉沼氏が帰国する時、純血のアラブ種馬、ジェルシイ乳牛、食用鳩等と共にブラックバスを持ち帰った。
帰国直前、サンタ・ローザ市の水道貯水池の水源である小滝の滝壺で幼魚を見つけ、ドクトル・ジョージ氏、ダブリュー・コンスタブル氏などの協力を得て、滝壺の水を汲み出して120~130匹の幼魚を捕獲した。

これまで採集したものを合わせて、220~230匹。
あとは日本まで無事に持ち帰るだけとなったが、サンタローザ市からサンフランシスコ港までの約100km、自動車で運搬し、東洋汽船コレア丸に積み込むまでに100匹近くが死んでしまった。
しかし航海は順調で5月28日早朝に無事横浜港に到着しました。
学術研究魚という名目の輸入でしたから、杉沼氏から東京帝国大学学部員にバトンタッチされ、久保氏、横屋氏、両農氏が受け取った。
ブラックバスは金魚桶に入れられ、小田原駅までは汽車輸送し、小田原から箱根町芦ノ湖までの約17kmは、人が担いで運搬した。
険しい道のりだったでしょうし、何より坂道でもあり、その17kmはサンタローザを出発してから最後の行程でもあり、最後にして立ちはばかる箱根の道は最も苦難に満ちていたように思う。

箱根町二カ村到着。
その道のりで3匹が死亡。
放流時には、赤星氏、東京大学関係者、東大名誉教授、日本学士院会員、雨宮育作博士も立合いには参加できず。
箱根町外二ヶ村役場歓業係の〆木勝蔵氏、地元の漁師田中三義氏の手で一匹づつ体長を目測で記録、33cm(2)、30cm(1)、9cm(88)、合計91匹このうち10匹を当時の箱根町長川辺儀三郎氏の提案で、箱根町の飯田栄吉氏所有の池に放つ。
日本では未知なる外来魚の生態等を、つぶさに観察できるようにと考えた。
かくして、1925(大正14)年6月22日に、78匹を芦ノ湖の西海岸箒が鼻に放流された。
この時の東京帝国大学の資料では、大きいもの3匹、小さいもの87匹、合計90匹、内、小さいもの10匹は飯田栄吉氏所有の池に放流とあり、箱根町組合役場保管資料では、合計91匹。
いずれにしても最初に放たれたという数と合わないが、放たれた時は78匹なのであろう。
約一年後の1926(大正15)年6月18日付、東京帝国大学農学部水産動物学教室より川辺町長宛の文書にて、飯田栄吉氏所有の池に放たれて生存していた6匹が、帝国大学の指示によって芦ノ湖に放流されている。

【山中湖から芦ノ湖に・・・】
冒頭に記述しているように、当初赤星氏は山中湖の漁民救済の為にと考えていましたが、芦ノ湖に変わった理由は、まずこの移入に関して東京帝国大学の学術研究魚としてアメリカ政府の許可を得たことにより、すべてを東京帝国大学側に一任した。
赤星氏も韓国に居たこともあり、任せるしかなかったともいえるが、これはあえて韓国に居る事で移入を順調に運ぶ為の配慮だったかもしれない。
東京帝国大学では芦ノ湖に淡水魚実験所もある上に、他の水系と絶縁されていて、他の淡水区域に移行分布できないという地理的な理由があり、ブラックバスが驚異的な繁殖をしたとしても心配する事がなかった。
芦ノ湖でもマス類の繁殖は湖を管理する帝室林野局が行ってきたが、芦ノ湖は適さないのではと考えられるようになっていた。
そのように地理的、時期的なこともあり芦ノ湖が選ばれたのであろう。

【芦ノ湖に移入後】
この頃すでにブラックバスは害魚だという非難もあったが、現在、芦ノ湖ではワカサギ、トラウト、ブラックバス、それぞれの釣りがされていてそれぞれのバランスが保たれているように思う。
1926(大正15)年5月22日 ・・・箱根町の川口庄之助氏が箱根遊船会社出張所の桟橋近くで大きなバス3匹を確認。
1926(大正15)年6月14日 ・・・21~24cmのバスが20~30匹ずつ泳いでいる群れを確認。
1927(昭和2)年10月4日 ・・・ブラックバスがよく釣れたと報告あり。
1927(昭和2)年11月12日 ・・・4日間の調査を行った結果、捕獲された24cm、8,9cmのバスはいずれも芦ノ湖で繁殖した個体である事が確認された。
1972(昭和47)年 ・・・・・・アメリカ政府の協力の下、ツネミ・新東亜グループがガルシア社の仲介の元ペンシルベニアからバスを空輸し、5000匹余りが芦ノ湖に放流された。
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by kftkubo | 2012-05-30 20:18 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第11章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(3)・・・「鍋島 桂次郎」

第11章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(3)・・・「鍋島 桂次郎」

1912年 各界要人が鱒釣りを楽しむ倶楽部「丸沼鱒釣会」が発起人 鍋島桂次郎により発足。

1860-1933 明治-大正時代の外交官。
万延元年5月生まれ。
外務省にはいり,公使館一等書記官となり,米・独・英に勤務。韓国統監府の参与官をへて,明治42年ベルギー公使。
「丸沼鱒釣会」の発起人。
大正5年貴族院議員。
昭和8年1月30日死去。
74歳。肥前長崎出身。

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日光には多数の欧米外交官や日本の政府要人が集まる避暑地だった。
箱根が外国人の避暑地として利用されていたことは、全国的に知られているが、日光が箱根よりも先に外国人を向かえ、戦前のある時期まで、カントリークラブがあったことは、あまり知られていないようである。

1870年 英国特命全権公使ハリーパークスが日光を訪問
1872年 英国公使館書記官アーネスト・サトウが日光を訪問
1874年 「ア ガイドブック ツウ ニッコウ」ジャパン・メイル社から発行
1887年 訪問外国人1000人を超える日本政府司法省法律顧問ウイリアム・M・H・カークード中禅寺湖畔に別荘を建てる
1888年 日光ホテル開業
1894年 中禅寺湖畔にレークサイド・ホテル開業
1900年ごろ 駐日外交官・政府関係外国高官の避暑地として確立
1912年 「丸沼鱒釣会」(発起人 鍋島桂次郎)各界要人が鱒釣りを楽しむ倶楽部
1924年 東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部、在日外国高官や著名人の別荘仲間、皇族、華族、政財学界要人が交流する社交場が発足。国際的避暑別荘地として最盛期を迎える。会員は英国式のフライ・フィッシングを楽しむ。
1929年 英国グロスター公、中禅寺湖畔の別荘を訪問

しかし、この後、日本は上海事変などを引き起こし、戦争への道を辿ることになる。
やがて、日本は欧米と敵対することになり、日光から外国人の姿が消えていくのであった。
大戦に突入するとともに、外国人の別荘は閉鎖されていった。
現在は、中禅寺湖畔に、英国、フランス、ベルギー、イタリアなどの大使館別荘が名残をととめているばかりである。
「夏場は外務省が日光に移動している」といわれたことも、今では夢のような伝説になってしまった。
栄枯盛衰は世のならいとはいうものの、ひとつの地域も、あるときに栄え、そして廃れていくのである。
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by kftkubo | 2012-05-22 20:52 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

丸沼の鱒釣り -思い出すまま- (全文) (土方 寧 大正8年)について

法学博士 土方 寧 1859~1940) 東京帝国大学教授 民法学者
雑誌「釣の趣味」(大正8年9月号)収載

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私が釣魚を始めたのは、恰度今から三二三年前の明治二十年頃であった。
その頃は品川湾の釣魚が今よりもずっと盛んだった。
今は隅田川の沿岸から種々な汚物が流れ寄って穢ないから、たんと出かけないが、その当時は未だ海も清潔だったし、方々から大勢釣魚者が集まって面白かったから私もよく脚立づりと云うのを遣ったものだ。
船を海の浅瀬に片寄せて積んできた脚立(折り畳むそうな仕掛になったもの)を水中に立て、それに乗り移って釣糸をたれると云う方法なのであるが、多くは梅雨の頃で、昼になると南の風が出て浅瀬が荒れ濁るから、昼間は釣れないものとされ、朝は出きるだけ早くから始めて、まづ正午前まで釣るのが一番漁があった。
で、一度釣魚に出掛けるとなると、釣る時間の短い割合に空しくその一日を潰して了〔しま〕わねばならぬつまり朝暗いうちから起きると、なると自然前の晩は殆ど眠れないし、釣魚から帰った午後も疲労と眠気とで茫乎〔ぼんやり〕して何も手につかぬと云う風でかなり、不便も感じないではなかったが、しかし、又一面から云うと、小暗い夜明前から海に出て、ひやりとした暁の海風に肌を晒しながら、四時頃になってほのぼのと水面の明ろくなるのを待って釣りはじめる、あの爽やかな心持は実に云〔なん〕とも云えない。
十月時分になると、私はよく海苔ひびの近くへ船を遣って、麦畑の畝のように立ち列〔なら〕んでいる竹垣の中間に釣糸を投げて、鯔〔ぼら〕や黒鯛を釣ったものである。
こうして、明治三十年頃まで約十年間くらい釣魚を続けたが、その後二十七年頃から鉄砲猟を始めるようになって、品川湾の釣魚はながく中絶して了った。
ところが、この鉄砲猟も明治天皇崩御の諒闇中に止めて以来、気抜けがして了って、今に出かけない。

そこで元の釣魚道楽が復活して、今日の日光丸沼の鱒つりとなったのである。
この日光の鱒つりの話をすれば、勢い現在吾々仲間の遣って居る(鱒釣り會)の由来も明らかになる訳かだら〔原文ママ。「だから」の誤植〕、少し許〔ばか〕り思い出すままに話して見よう。
日光に遊んだ者は、誰でも湯元から中禅寺湖に注いでいる湯川を知っているであろう。
この川は蜿々〔えんえん〕と曲がり曲がって二里余りであるが、その中禅寺湖へ注ぐ川口を菖蒲浜と読んで居る。
ここに、十四五年前、当時の宮内省御料局(今の帝室林野局)の経営にかかる魚の養殖場が設けられて、湯川と湖とに鱒を放養した。
鱒の種類もいろいろあるが、この時分養殖されたのは、アメリカ産の虹鱒(Rainbow trout)と云うので、繁殖の極めて旺〔さか〕んな種族であった。
胴の両側に虹のような斑紋があるので、この名が出たのである。

かくしてこの養殖場では、湯川で一日一円、中禅寺湖で一日五十銭の料金を徴して誰にでも釣ることを許可したのである。
ところが、七年程前、鉄砲猟や釣魚の友達で、私と極く仲の善い貴族院議員の鍋島桂次郎氏が、これも外交官出で以前仏蘭西大使を勤めた栗野子爵と同伴で、この湯川へ釣りに行ったことがある。
『大変面白いところだから是非案内しよう』と私は勧められた。
恰度八月の初旬であった。
私は鍋島氏に伴われて、湯川に行って見たが。
一向に釣れない。
鍋島氏も気を揉ん。
『いや漁不漁のあることだから仕事〔原文ママ。「仕方」か?〕がない。
しかし、何とかして小気味よく釣らせたいものだな』などなど気の毒がった。
実際初めての場所で、初めての時に釣れないことは、せっかくの弾みを抜かして了う。
氏はそれを心配したのだ。
ところが吾々は、中禅寺湖で「湯本〔原文ママ。「湯元」か?〕から山越しで三里程行くと上州の方へ降るところに、丸沼と云う湖水がある。その湖水へ行くと素晴らしく釣れる。」と云う噂を耳にした。
で、吾々は直ぐにも行って見る気になった。

そのときの話では、何でも群馬県の富豪の千明氏が、水産講習所と共同してその丸沼に鱒を飼養していると云うことであったが、何しろ丸沼と云うところは、湯本へ三里、上州の人家へ三里と云う深山の無人境で、養殖場にも一棟の家がある許り、泊るに夜具もなければ、食事の用意もあるまいと云うので、吾々は出発するに先立ち、湯本まで行って、米や味噌や缶詰などを買い求めて人足に持たせさて、丸沼に向かったが、その山路の険しいことと云ったらなかった。殆ど道らしいものとてはなく、夜の通行は無論のこと、馬さえ歩行の出来ないところを、或は荊棘〔いばら〕を繰〔くぐ〕り、或は乗り越えつ、或は匍〔は〕いつして、漸く目的地に着いたが、この時は千明氏の令閨がどこでか私どもの企てを聞いて出迎いにまで出て下さったので兵糧-宿泊までの用意万端心を用いて要がなくなった。
早速その湖水に釣糸を垂れたが、釣れること、釣れること、実に面白かった。
湯川の不漁をここで十分に償って、私達は喜び勇んで帰京した。

この愉快な釣りに味をしめて、その翌年で鍋島氏と語って丸沼へ行った。
今度も却々〔なかなか〕の漁があった。
で、東京倶楽部の一員たる鍋島氏はこの吉報を齎〔もた〕らして、倶楽部員間に吹聴したので「そりゃ面白いぜひ釣りに行こう」と云う人が続々と出た。
終に、釣魚仲間が出来、同志語って日光の鱒釣り會を作ったのであった。
これが新聞などで大袈裟に噂されるようになったのだが、つまりは鍋島氏と私とが丸沼に探検的な釣りを試みたのがそもそもの動機で、足掛三年目にこの會の成立となったのである。

鱒釣會の會員は、始め十幾人で、今村繁三氏、赤星鉄馬氏、西園寺八郎氏、伊集院子爵(今は退会)飯島魁氏、鍋島桂次郎氏と私などであった。
會員の中には釣魚に初心な人もあって、西洋流の釣竿を英国へ注文するやら、特別注文の竿を名題の職人に誂〔あつら〕えるやら、皆大いに弾み出した。
が未だ行かぬ人もある。
憲政会総裁の加藤男も會長と云うことになって居るが、往復に日数を要するところから、激務に寸暇なく、まだ一度も行かぬが、何しろ金のある人々の集りだから、その後丸沼の魚釣場には、種々の設備が出来て、近頃は頗る便利となり、したがって釣りも盛んになって来た。
會が出来てから恰度七年になる。
會員も増加して今では二十幾人になった。
岩崎小弥太男、古河虎之助氏なども入會している。

一昨年は「宿が一陳では不便だから」と云うので、今村氏と赤星氏とが協力して、更に一陳、家を丸沼に新築することになった。
その建築用の木材は、千明氏の寄附で、持山の生木を伐ったものである。
各年〔原文ママ。「昨年」か?〕年の暮に、その新築が成った。
一万三千円からの経費をかけた立派な家で、温泉も引こうと云う計画もあったようだ。

今では主として今村氏が會の世話を焼いて呉れている。
何時かも氏が態々〔わざわざ〕東京から料理人を連れて来て山中とは思えぬ贅沢な食事を調理させたりした。
が、余り贅沢すぎるので、その後は湯本の板屋と云う温泉宿の主人に托して、あまり贅沢でない。
野趣のある料理をつくらせて食べた。

七月八月を漁期として、會員は随時避暑かたがた釣りに行ける
こう云う訳で、今では万事万旦便利になって、頗る結構は結構だが、釣魚の趣味から云えば、寧ろ不便でも閑寂で野趣の漲った気分の方が貴いと云う者もある。
この丸沼には目下虹鱒のほかに姫鱒と云う日本種の鱒が居るこの姫鱒は食膳に上して頗る美味であるが、あまり弘〔ひろ〕く生存しない。
今では方々にこの種の鱒を飼養している。
秋田県の十和田湖にも盛んに繁殖させているが、先年丸沼に虹鱒を繁殖させていた技手が、北海道の或る湖から、この姫鱒を丸沼に移して放養したので、今では虹、姫二種の鱒が釣れる、訳であるが、この人が最近栃木県庁の技手になって赴任したので、その後任者がいないのに困っている。
この技手は頗る特志な人で十年近く丸沼に止まって鱒の養殖に従事したのだが、虹鱒の卵を撒くのは極寒で、雪の山籠りの侘しさは並大抵でない丸沼は何処へも交通が杜絶えるのであるから、余程の特志家でないと辛抱が出来ない訳で、未だに志望者を得ない始末である交通杜絶で思い出したが、最初私達が行路難を感じた山路は、その後會員が據金して修繕したので、今では夜間も提灯があれば歩けるし、馬で踏み入ることも出来るし、危険はなくなったことに先年北白川宮が吾々の鱒釣りを許可〔おみみ〕にせられ、御微行で丸沼にお越しになった時、県庁の方で倉皇〔きょこう〕として道路の修理にかかったので、吾々は今思わぬ余慶を蒙って非常に喜んでいる、北白川宮の御来臨のあった時は、英国で盛んに練習して来たかばり釣りの名人鍋島桂次郎氏が御同乗申して、小舟で湖水を乗り廻し、更に七八間離れて、私が別の舟で投げ釣りを試みたが、その日は一向に食わなかった。
その前日から宮様の御来臨を仄聞した吾々は、湖を荒らさずに置いた甲斐もなく、生憎なことであった。天候気温の加減で、余程漁に違いがあるので、何とも致し方がなかった。

吾々の鱒釣りの根拠地丸沼の外に、菅沼、瓢箪沼と云うのがあるから一寸紹介しよう。
湯本から山越えで一里余進むと山頂に金精峠と云うのがある。
栃木県と群馬県との境で、海抜約五千幾百尺、この峠を下ると海抜五千尺位の処に菅沼がある。
更らに下ると件の丸沼があり、丸沼から二十間位の長さの掘割のような谷川に続いて下の方に瓢箪沼がある、菅沼は丸沼より三四倍の大きな湖で姫鱒がいる。
千明氏が網で捕らせて日光の街へ売り出している。
瓢箪沼も丸沼より大きい湖だが、鯉や鮒などは居るが、草の多い所為で鱒はいない。
尚釣魚の出来る谷川では大瀧川と云うのがある。
湯川よりも大きく、目下この川一里あまりは手続を済まして釣りの占有権を持って漁番をしている。
しかし釣り者にとって面白いのは、何と云っても丸沼でことに虹鱒のかばり釣りである。
丸沼のは前述のように虹鱒と姫鱒との二種がいるが、この姫鱒と云う奴は殊に川を嫌って湖水を好み、それもずっと深みにいる會員の一人飯島氏は動物学者の立場から、「この姫鱒は鱒と云ううち、鮭に近いもので、多分海から湖水へ流れ上って来て、海へ下れずして湖に居残ったものだろう」その推測を下しているが、兎に角この鱒は深みにいるから餌を沈めて釣る、跳ね回って却々〔なかなか〕荒れる魚であるが、釣りのなぐさみから云えば虹鱒に如かぬ。
虹鱒は川を好み、水面に浮いて来る魚で、かばりで釣る、殊に蝶や蛾や蟲類を巧妙に鈎に細工した。西洋式のかばりで釣ると、一段の趣きがある。
湖水の場合は小舟で湖上に乗り廻して、かばりを十間位先へ投げる、竿は一間半にも足らず、なまりもないのに、投げ方がうまいと、いくらでも遠方へ鈎が飛んで行く。
その投げ方の巧拙に面白味がある上に、水面に浮いて来た虹鱒の鈎にかかるのが舟の上から見られるし、かかつた魚を手許の糸捲で、糸を捲いて引き寄せる間の興味もあって、却々に趣きの深いものである。

今年の夏は私は、丸沼に十日許り逗留して土方久徴氏と倶に釣ったが大漁で、一日に百幾匹も釣った。
今村氏、飯島氏、田中氏(前満鉄理事)なども行ったまた今度巴里の講和会議の晴の舞台から帰った西園寺八郎氏も却々熱心な會員で、九月に行くと云って居る段々に會の旺んになるのは結構なことだ。
何しろ、丸沼は深山の別天地で、東京市中で九十度に昇る酷暑の日も、この地は七十度位のもので、空気が乾燥して涼しく、随って蚊も居なければ虱〔原文では「のみ」のルビあり〕も居らぬ。
好箇の健康地と云って差支えない。
今村氏の云う如く、真に繁忙な実業家が俗事を忘れて、命の洗濯とするのに、この山中の釣魚くらいいいものはないと思う。


本書は、雑誌「釣の趣味」大正8年9月号に寄稿されたもの。
著者の死後50年経過により著作権期間が満了。
全文を掲載。
なお、原文はルビで読み仮名がふられているが読みが困難なものを除き原則として省略した。
また、旧漢字・旧仮名使いを適宜現代文に改めている。

土方寧

民法・イギリス法学者。
土佐(高知県)に安政6年2月12日生まれ。
1859-1939 明治-昭和時代前期の法学者。
東京大学法学部を卒業した。
民法を専攻し,イギリスに留学。
1883年(明治16)同大学の助教授となり、1887年にはイギリスに留学し、バリスター(法廷弁護士)の資格をとった。
1891年帰国し、教授に進み、1925年(大正14)までその職にあった。
民法典編纂(へんさん)以後の、わが国におけるイギリス法研究の代表的存在とされる。
また、1885年には、英吉利法律学校(イギリスほうりつがっこう)(現在の中央大学)の創立に力を尽くした。
明治24年帝国大学教授となり,44年東京帝大法科大学長。
英法の研究に道をひらいた。
18年開校の英吉利(イギリス)法律学校(現中央大)の創立者のひとり。
大正11年貴族院議員。
昭和14年5月18日死去。
81歳。
1939年(昭和14)北支派遣軍慰問中、天津(てんしん)に客死した。
著書に『英国契約法』(1887)、『英国流通証券法』(1888)がある。
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by kftkubo | 2012-05-18 22:50 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第9章 三菱財閥の創業者で初代総帥「岩崎 弥太郎」と「トーマス・ブレイク・グラバー」

第9章 三菱財閥の創業者で初代総帥「岩崎 弥太郎」と「トーマス・ブレイク・グラバー」

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)
天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)
日本の実業家。
三菱財閥の創業者で初代総帥。
明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。
諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。

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土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎(やじろう、1808年 - 1873年)と美和の長男として生まれる。
地下浪人とは、郷士の株を売ってしまって浪人をしている者のことで、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門の代に郷士の株を売ったと言われている。
幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。
21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾する。

安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。
父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業に手を染める機縁となった。
出獄後は村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。
東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
この頃、27歳で弥太郎は長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。
土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。
しかし、必要な届出に不備があった事を咎められ帰国した。
尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる。
この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎は九死に一生を得ている。
帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。

慶応3年(1867年)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。
坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。
記録上確認出来る弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。
弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。
この時「坂本龍馬」と「岩崎弥太郎」は長崎で「トーマス・ブレイク・グラバー」に会っていたと思われる。

明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。
明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。
このころ、土佐屋善兵衛を称している。
廃藩置県後の
明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。

三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。
この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマーク「スリーダイヤ」を作ったことはつとに有名である。
三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。
弥太郎は最初から政商として暗躍した。

三菱商会は、
明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。
明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。
政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。
しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。
農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺される。
明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚し、弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
また、パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。
こうしたライバルとの競争の最中、
明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。
このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
明治14年(1881年)官営事業払い下げで三菱の「岩崎弥太郎」が高島炭鉱を買収してからも「トーマス・ブレイク・グラバー」は所長として経営に当たった。
明治18年(1885年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒の基礎を築いた。

明治20年代にグラバー商会は倒産し、グラバーは三菱財閥の顧問として上京した。
グラバーは、東京の夏の蒸し暑さから逃げるように、当時避暑地として注目されていた日光へと向かう。
中禅寺湖漁業組合総代の大島籐三郎がグラバーの世話をした。
その息子・久治がグラバーと親しくなり、やがてグラバーに預けられ、教育を受けることになる。

岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。
三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。
家紋は重ね三階菱。
弥太郎には多くの子供がいるが、正妻・喜勢との間に生まれたのは長女・春路(加藤高明夫人)、長男・久弥、次女・磯路(木内重四郎夫人)の3人のみである。
次男・豊弥は養子(実父は郷純造)、他の子供は弥太郎と妾(弥太郎の死亡当時6人いた)との間に生まれた子供たちである。
なお弥太郎の死後、嫡男・久弥が父・弥太郎の業績に対し男爵を授けられた。
岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。
なお弥太郎の娘婿4人の中から、加藤高明及び幣原喜重郎の2人が内閣総理大臣となっている。
単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。
孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがいる。
曾孫には鎮西清高(地球科学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく地球科学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務めた岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の4代目当主)、寛弥の従姉で元良誠三(工学者、東京大学名誉教授)の妻・由美子や由美子の妹で槙原稔(元三菱商事社長)の妻・喜久子らがいる。
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by kftkubo | 2012-05-10 19:57 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

原子力災害対策特別措置法第20条第3項に基づく指示について(うぐい)

福島第1原発の事故から1年2か月になろうとしています。
栃木県より「原子力災害対策特別措置法第20条第3項に基づく指示について(うぐい)」の2012年5月7日発表がありました。

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原子力災害対策特別措置法第20条第3項に基づく指示について(うぐい)
http://www.pref.tochigi.lg.jp/g05/houdou/gyoruisyukkaseigen120507.html

本日、本県の「うぐい(養殖により生産されたものを除く。)」について、原子力災害対策本部長から栃木県に対し、原子力災害対策特別措置法第20条第3項に基づき、下記河川において「当分の間、出荷を差し控えるよう、関係事業者等に要請すること」との指示がありました。
この指示を受けて関係漁業団体に対して、本日、出荷自粛の徹底を要請しました。
なお、茨城県境より那珂川町武茂川合流点までの那珂川本支流、那須烏山市森田頭首工より下流の荒川本支流及び茂木町馬門の滝より下流の逆川本支流については、今回、出荷制限が指示された区域に含まれなかったこと、かつ、これまでの検査結果が基準値(100Bq/kg)をすべて超えていないため、平成24年4月25日付けで県から関係漁業団体に対して行っていた、うぐいの採捕自粛要請を解除することとしました。

1 うぐい(養殖により生産されたものを除く。)の出荷制限指示の区域
(1)大芦川(支流を含む。ただし、荒井川及びその支流を除く。)
(2)武茂川(支流を含む。)
(3)栃木県内の那珂川のうち武茂川との合流点の上流(支流を含む。ただし、塩原  ダムの上流及びその支流を除く。)

○うぐいとは?
・県内のほぼ全域に生息するコイ科の魚
・通常雑魚(ざこ)と呼ばれるが、産卵期に赤い婚姻色が現れたうぐいは、「アイソ」と呼ぶ

関連資料
原子力災害対策本部長通知(5月7日)(PDF:117KB)
http://www.pref.tochigi.lg.jp/g05/houdou/documents/120507syukkaseigen.pdf

このページに関するお問い合わせ
栃木県農務部生産振興課 水産担当
〒320-8501 宇都宮市塙田1-1-20 県庁舎本館12階
電話番号:028-623-2351
ファックス番号:028-623-2335
Email:seisan-sinko@pref.tochigi.lg.jp
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by kftkubo | 2012-05-08 12:40 | 河川の放射能汚染 | Comments(0)