フィッシャーマンのためのフィッシングカフェ


by parlett

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリ

全体
フライフィッシングの夜明け
カズさんからの手紙
野生魚を追え!!
フライ フィッシング
フライ タイイング
河川の放射能汚染
未分類

最新の記事

サクラマスの一生
at 2014-12-21 16:55
野生魚を追え!! - 川のラ..
at 2014-10-25 07:36
鬼怒サケ
at 2014-10-12 07:46
鱒釣りの聖地巡礼 その3 湯ノ湖
at 2014-08-06 21:30
カズさんからの手紙 54  ..
at 2014-07-14 09:20
鱒釣りの聖地巡礼 その2 大谷川
at 2014-06-22 21:30
カズさんからの手紙 53 3..
at 2014-06-18 17:52
カズさんからの手紙 52 先..
at 2014-06-12 19:40
鱒釣りの聖地巡礼 その1 中..
at 2014-06-08 20:30
カズさんからの手紙 51 2..
at 2014-05-24 06:32

以前の記事

2014年 12月
2014年 10月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 08月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月

ファン

お気に入りブログ

shakerの軽井沢 F...
グリースドラインで釣り日記!
ギフの山猿「フライ日記」
渓流の近くで一泊
Down & Across
Metropolitan...
高太郎の箸休め
Uncle's Cafe
ゾウさんのHotひと息
Cloud Number 9
CURTIS CREEK 情報
つっちーのフライフィッシ...
Camel Blog
毛鉤人のViva,FF
陸に上がってた☆Flyman!
Highland Can...
Tokyo/Naha C...
ajax_spey diary
いないなのホビーハウス
和尚exさんのまんぷく日記♪
森のフィッシュ魚ッチング
~BQイッチー フィール...
ふらい人 / Towar...
amaneiro
春が来た

外部リンク

LINK

タグ

ライフログ

最新のコメント

貴重な情報ありがとうござ..
by kftkubo at 11:33
中禅寺湖南岸の放射線量率..
by 栃木還暦 at 17:14

最新のトラックバック

http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..

検索

その他のジャンル

ブログパーツ

記事ランキング

ブログジャンル

釣り
アウトドア

画像一覧

タグ:丸沼鱒釣倶楽部 ( 6 ) タグの人気記事

第15章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(7)・・・「加藤 高明」

第15章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(7)・・・「加藤 高明」

c0239720_13395826.jpg


明治維新によって広く欧米に門戸を開いた日本では、その後、上流階級の子弟が次々に留学へと旅立っていった。
欧米の文化、技術を学び、一刻も早く日本がそれに追いつくことを願う、向学心に燃えた若者たちである。
しかし、彼らが持ち帰ったのは政治や経済、科学の先進情報だけではなかった。
欧米上流階級の生活様式や価値観、余暇の過ごし方も身につけて帰国したのである。
趣味や遊びを通じて友好を深め、それを事業や政治に活かすという流れは、古今東西珍しいものではないが、その子弟たちは日本になかったフライフィッシングやゴルフなどを嗜むようになっていたのだ。
鹿鳴館でダンスを踊りながら文明国であることをアピールしたり、各国外交官との交遊を図ったのは有名な話だが、こういった趣味などが果たす役割も見逃すことはできない。

そんな日本の上流階級の人々が奥日光の地にマス釣りの桃源郷を見出した。
丸沼である。明治時代初頭、すでにニジマスなどの養殖、放流が行なわれていた同湖は、周囲を豊かな緑で覆われ、その清冽な湖水は水源をほぼ湧水に依存という恵まれた環境にあった。
海抜千mを優に超すその気候は夏でもさわやかで、高温多湿の首都東京に暮らす彼らにとっては絶好の避暑地でもあった。
後の外務大臣加藤高明や鍋島桂次郎は、ここに丸沼鱒釣会を発足させ、日本におけるマス釣りの歴史が幕を開けたのである。


加藤 高明 (かとう たかあき)

生年月日 1860年1月25日(旧暦安政7年1月3日)
出生地 尾張国
没年月日 1926年1月28日(満66歳没)

出身校 東京大学法学部卒業
前職 外交官(在イギリス公使)
所属政党 立憲同志会 → 憲政会
称号 正二位 大勲位菊花大綬章 伯爵
法学士(東京大学・1881年)

配偶者 加藤春路(岩崎弥太郎長女)

第24代 内閣総理大臣
内閣 加藤高明内閣
任期 1924年6月11日 - 1926年1月28日

第16・19・26・28代 外務大臣
内閣
第4次伊藤内閣 (16)
第1次西園寺内閣 (19)
第3次桂内閣 (26)
第2次大隈内閣 (29)

任期
1900年10月19日 - 1901年6月2日 (16)
1906年1月7日 - 同3月3日 (19)
1913年1月29日 - 同2月20日 (26)
1914年4月16日 - 1915年8月10日 (29)

その他の職歴
貴族院議員 (1915年8月10日 - 1926年1月28日)

生涯

財界への歩み

尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれた。
父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。
1872年(明治5年)、祖母・加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。
旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、1881年(明治14年)7月に東京大学法学部を首席で卒業し、法学士の学位を授与された。
その後三菱に入社しイギリスに渡る。
帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚。
このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる。

財界から官界、政界へ

外務大臣在任中
1887年(明治20年)より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。
1900年(明治33年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。
その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。
その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅選議員に勅任された。
1913年(大正2年)、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は総裁職を総理と呼称していた)となった。
翌年第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。
大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。
しかし、同志会結成の過程で犬養毅らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。
また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った。
唯一、高橋内閣総辞職の際に、「加藤友三郎が辞退した場合には、加藤高明を後継総理とする」決定(「加藤にあらずんば加藤」といわれた)が元老会議で出された事があったが、これを知った立憲政友会が辞退を決意していた加藤友三郎を説得して翻意させてしまったために政権獲得の好機を逸している。

組閣以降

第二次護憲運動で清浦内閣が倒れ、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の所謂、護憲三派が新しく組閣することになった。
1924年(大正13年)6月11日、憲政会が比較第一党となり加藤は内閣総理大臣となった。
加藤は東京帝国大学出身初の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。
しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。
この法規は後に言論弾圧の口実として使われ、特に戦時中に乱用されたとして治安維持法反対派からは強く批判されている。
一方で治安維持法擁護派からはこの時期に労働運動が多発しており、またロシア革命の影響から普通選挙法によって共産主義が爆発的に広がる可能性もあったことから出されたもので、当時の各国も同様の法規を有していたことからやむを得ぬものであったとする意見もある。
また、宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。
こうした右左の政治を狡猾に使い分けた加藤の治世を飴と鞭と称することもある。
また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、大正デモクラシーの成果が実った内閣でもあった。
この内閣には元総理の高橋是清、加藤のあと次々と総理となる若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎(臨時)、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。
翌年、憲政会と政友会のつなぎ役であった横田千之助司法大臣が急死すると、政友会と憲政党は内紛を起こして護憲三派連立は崩れて加藤内閣は崩壊する。
だが、元老の西園寺公望は自らが次の政友会内閣の首班に期待していた横田が死ぬとたちまちその遺志を踏みにじって護憲三派を崩壊させた政友会に失望して、個人的には好意的ではなかった加藤に政権を続投させる決断をした。
これを受けて1925年(大正14年)8月2日、加藤の憲政会単独内閣となる。
しかし、その翌年の1月22日、加藤は帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れてそのまま6日後に逝去。
66歳没。
加藤の逝去後に、若槻禮次郎が内閣総理大臣臨時代理を経て組閣の大命を受けて第1次若槻内閣を組閣し、大正から昭和へと時代が代わることとなる。

家族

妻は岩崎弥太郎の長女・春路。
長女悦子は岡部長景の妻。
新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。

栄典
1902年(明治35年)12月28日:勲一等瑞宝章
1911年(明治44年)8月24日:男爵
1916年(大正5年)7月14日:勲一等旭日桐花大綬章、子爵(陞爵)
1926年(大正15年)1月28日:大勲位菊花大綬章、伯爵(陞爵)

伝記 [編集]

ウィキメディアより引用。


三菱人物伝 加藤高明

加藤高明(かとうたかあき)と幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)。
ともに外交官から外務大臣に抜擢され、政界に転じてついには首相になった。
頂点に立った時期は20年ずれるが、ふたりとも岩崎彌太郎(いわさきやたろう)の娘を妻とした「三菱ゆかりの人」である。

四季折々の花が香る名古屋の鶴舞公園に、野外ステージ「普選記念壇」がある。
正面に『五箇条の御誓文』が掲げられ、なにやら場違いな感じがしないでもないが、じつは護憲三派内閣の首相となった加藤高明が、大正14年(1925)に普通選挙法を成立させたことを記念して建設されたものである。
国税を3円以上納付した男性に限定されていた選挙権はこれにより25歳以上の男性すべてに開放され、有権者数は一気に4倍になった。
女性にも参政権が与えられるのは、終戦後の昭和20年〈1945〉になってからである。
この時の首相は奇しくも義弟幣原喜重郎だった。

加藤は万延(まんえん)元年(1860)尾張(おわり)藩の下級武士の家に生まれた。
東京大学法学部を卒業すると郵便汽船三菱会社に入り、明治16年(1883)に英国の海運業を学ぶためロンドンに留学した。
明治18年に帰国して三菱に復帰、神戸支社副支配人となり、のちの合併で日本郵船へ。
翌年、岩崎彌太郎の長女春路(はるじ)と結婚した。
英国留学で垣間見た国際舞台を忘れられず、ロンドンで知遇を得た陸奥宗光に働きかけて推薦を得、明治20年に外務省に入った。

加藤は持ち前の明晰な頭脳と剛直な性格に加え、運にも恵まれた。
間もなく、義父岩崎彌太郎に理解のあった大隈重信が、黒田清隆内閣で外務大臣になった。
加藤は大隈の秘書官として登用され希望通り国際舞台に踊り出ることができた。
外交官としてのその後は順風満帆で、やがて駐英公使となり日清戦争後の日英関係の好関係樹立に尽力、明治33年には第4次伊藤博文内閣で外務大臣になった。
このとき、 40歳。


護憲三派内閣の首相に

かくして政界に足を踏み入れることになり、かたわら東京日日新聞の社長も務めた。
41年の桂太郎内閣のとき加藤は駐英大使に転出したが、時代の節目節目で外相を務め、第一次世界大戦後は「対華21か条の要求」など強気の外交政策を主導した。
大正5年には憲政会総裁になり、大正13年5月の総選挙では、高橋是清の政友会、犬養毅の革新倶楽部とともに第二次憲政擁護運動を展開、三政党で過半数を獲得した。
第一党となった憲政会の加藤が首相になり、「護憲三派内閣」を組織した。
「護憲三派内閣」は、まずは貴族院の力をそぐ政治改革を断行、次に、懸案の『普通選挙法』を成立させ財産による選挙権の制限を撤廃し歴史に名を残した。
一方では無政府主義や共産主義勢力の台頭を抑えるため『治安維持法』も成立させている。
大正14年に成立した第二次加藤内閣は憲政会の単独内閣だったが、やんぬるかな、加藤は体調を崩して首相の座を若槻礼次郎に譲らざるを得なかった。
二日後に肺炎で急逝。
毀誉褒貶いろいろある政治家だったが、明治から大正にかけて、激動の時代の日本を動かした、存在感のある政治家だったことには異論がない。

三菱資料館 三菱人物伝 加藤高明 より引用。
[PR]
by kftkubo | 2012-08-16 13:40 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第14章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(6)・・・「古河 虎之助」

第14章 丸沼鱒釣倶楽部のメンバーたち(6)・・・「古河 虎之助」

今から100年前の大正元年(1912年)、当時の政実業家たちの親睦団体である「東京倶楽部」の釣り好きによって「丸沼鱒釣倶楽部」が生まれた。
今村繁三、赤星鉄馬、土方寧、西園寺八郎、伊集院子爵、飯島魁、加藤男爵、岩崎小弥太、古川虎之助、鍋島桂次郎などが主なメンバーであった。
後に、ハンス・ハンター氏が奥日光中善寺湖畔に鱒釣りを中心とした会員制の『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 を大正末から昭和初期に設立した。
在日外交官や日本の上流階級の紳士的な社交の場として設けた同倶楽部は秩父宮、東久邇宮、朝香宮を賛助会員に、代表は佐賀藩主の家柄の鍋島直映(なおみつ)公爵、会長は時の加藤高明首相、副会長には三菱財閥の岩崎小弥太男爵、会員には後の日銀総裁土方久徴、古河財閥の古河虎之助男爵、樺山愛輔伯爵ら錚々たる人たちが名を連ねている。

c0239720_1256193.jpg


c0239720_12531554.jpg
古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ)
明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)

日本の実業家。
東京都出身。
古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。
男爵。
虎之助が大正6年(1917年)から大正15年(1926年)まで暮らした邸宅は、現在は都立旧古河庭園として公開されている。
歌舞伎役者が隣りに並びたがらない程の絶世の美男だった。
古河市兵衛の晩年の子である。

明治36年(1903年)に慶應義塾普通部を卒業し、ニューヨークのコロンビア大学に留学。
明治38年(1905年)1月に義兄である潤吉の養子となるが、同年12月に潤吉が36歳の若さで病没したため、若くして古河財閥の3代目当主となった。
間もなく、副社長として病床の潤吉を支えてきた原敬も内務大臣就任のため古河鉱業を辞任。
市兵衛の片腕だった木村長七が虎之助の後見人となって実際の経営を取り仕切った。
明治40年(1907年)親戚で古河鉱業社員の中島久万吉と共に欧米を遊学の後に帰国。
この中島久万吉が後の古河家を支えていく。
大正4年(1915年)12月1日、経済発展に尽力した実父市兵衛の勲功により男爵に叙爵された。

虎之助が財閥を相続した当時、経営基盤は依然として足尾銅山が産出する銅であった。
鉱毒問題に対しては、古河鉱業も鉱毒予防令に従い対策工事を実施していたものの、同社への非難の声はなお根強かった。
1906年、古河鉱業社長に就任して間もない虎之助は社会的な非難を緩和すべく、原敬の助言に従い資金難で設置が危ぶまれていた東北帝国大学と九州帝国大学の校舎建設費用の寄付を申し入れた。
寄付金の総額は1907年度から5年間で106万円に達した。
この資金で建てられた校舎のうち1棟が、現在も北海道大学構内に古河記念講堂として残されている。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、銅の特需に後押しされた古河財閥は経営の多角化を推し進めた。
1918年までには、持株会社の古河合名会社が直轄する鉱業(古河鉱業)・金融(古河銀行)・商社(古河商事)を中心として、傘下に20社以上の企業を束ねる一大コンツェルンに拡張させた。
しかし1920年の戦後恐慌による銅価格の暴落や投機取引の失敗により経営が失速。
1921年に古河商事が破綻、1931年には古河銀行を第一銀行に譲渡するに至り、総合財閥として欠かせない商社と金融の機能を喪失した。

一方、社長在任中には古河電気工業(1920年合併)や富士電機製造(1923年設立)、富士通信機製造(1935年設立)など、後に親会社の古河鉱業を上回る大企業となった会社が複数誕生している。
軍需の拡大した1930年代は鉱業部門に代わってこれらの工業部門が業績を伸ばし、古河財閥は再び急成長していった。
[PR]
by kftkubo | 2012-06-16 12:56 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第13章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(5)・・・「飯島 魁」

第13章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(5)・・・「飯島 魁」

飯島魁(いいじま・いさお)
静岡の偉人
遠近国浜松(静岡県浜松市)生まれ。
文久元年(1861)6月17日-大正10年(1921)3月14日 80歳

c0239720_9574050.jpg


動物学者、魚類学者。
最初の動物学研究留学生。

開成学校を経て明治11年(1878)東京大学理学部生物学科に入学。
卒業後、お雇い外国人教師モースおよびホイットマンらの指導を受け、卒業後はドイツ・ライプチィヒ大学に留学。
日本最初の動物学研究留学生だった。
帰国後、明治19年(1886)東京帝国大学理科大学動物学教授、明治24年(1891)理学博士。
明治37年(1904)三崎臨海実験所所長(初代所長・箕作佳吉の死去をうけて第二代所長)。
おもに寄生虫類などを研究し、その感染経路を明らかにした。
広節裂頭条虫(こうせつれっとうじょうちゅう)の感染源の研究にあたり、自ら幼虫を試食し、体内で幼虫が発育して母虫となることを実証したというエピソードが残る。
明治21年(1888)に著した『人体寄生動物編』は、日本寄生虫学の原典となった。

また、明治24年(1891)鳥の和名を研究集成した『日本の鳥目録』を著し、鳥類学の草分けともなった。
明治45年(1912)5月、日本鳥学会を創設し初代会長をつとめるなど、日本における近代鳥類学の指導者であった。
さらに、動物学の教科書『動物学提要』を著し、この本はわが国における動物学の基礎を築いた名著とされている。
日本における水族館の発展にも貢献。
「日本の水族館の父」と称されている。

考古学にも興味を持ち、師モースの大森貝塚の発掘に参加した。
のち、陸平貝塚を発掘調査をして、大森貝塚とは異なる縄文土器の存在を明らかにした。


雨読晴釣山人(ペンネーム)について、本名 綾井 忠彦、日本釣魚連盟理事長の雑誌「釣の研究」昭和6年8月号に掲載されたもの。
「~奥日光湯本の鱒と白浜の黒鯛~」について

「不幸にして鑑札(勿驚一日四円)の時間が朝の八時から午後の五時ときめられて居り、監守の先生が馬鹿に宮内省カゼを吹かすので、肝心な日暮にやる事が出来ぬ。
併し裏には裏がある。
帝大教授理学博士の何某とか、法学博士何の誰とか云う御歴々が来ると、監守先生は必ず之を大目に見る様だから、山人は其御相伴をするか、づうづうしく其近所に行きてナイナイ其恩恵に浴した事もあるが、それは三ヶ月間の中で只二三回丈であった。」

前年昭和5年夏の76日間を子どもの皮膚病の温泉療法のために湯元で過ごした際の鱒釣り三昧を語っている。
鑑札が高すぎる、監視人がヤカマシイ(そのくせ帝大教授などには甘い)、餌釣りを禁じて毛鈎のみとせよ、尾数制限を設けよ、などなど悪く言ってしまえば「言いたい放題」、あえてFLY FISHERとしての身内びいきで言えば「進歩的」と思える発言が多々である。
こうした挑発的とも思える表現が綾井氏の持ち味であるようだ。
でもどこか憎めない。
なお、文中の帝大某理学博士は飯島魁氏、某法学博士は土方寧氏ではないかと思われる。
[PR]
by kftkubo | 2012-06-09 10:01 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第11章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(3)・・・「鍋島 桂次郎」

第11章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(3)・・・「鍋島 桂次郎」

1912年 各界要人が鱒釣りを楽しむ倶楽部「丸沼鱒釣会」が発起人 鍋島桂次郎により発足。

1860-1933 明治-大正時代の外交官。
万延元年5月生まれ。
外務省にはいり,公使館一等書記官となり,米・独・英に勤務。韓国統監府の参与官をへて,明治42年ベルギー公使。
「丸沼鱒釣会」の発起人。
大正5年貴族院議員。
昭和8年1月30日死去。
74歳。肥前長崎出身。

c0239720_2051583.jpg


日光には多数の欧米外交官や日本の政府要人が集まる避暑地だった。
箱根が外国人の避暑地として利用されていたことは、全国的に知られているが、日光が箱根よりも先に外国人を向かえ、戦前のある時期まで、カントリークラブがあったことは、あまり知られていないようである。

1870年 英国特命全権公使ハリーパークスが日光を訪問
1872年 英国公使館書記官アーネスト・サトウが日光を訪問
1874年 「ア ガイドブック ツウ ニッコウ」ジャパン・メイル社から発行
1887年 訪問外国人1000人を超える日本政府司法省法律顧問ウイリアム・M・H・カークード中禅寺湖畔に別荘を建てる
1888年 日光ホテル開業
1894年 中禅寺湖畔にレークサイド・ホテル開業
1900年ごろ 駐日外交官・政府関係外国高官の避暑地として確立
1912年 「丸沼鱒釣会」(発起人 鍋島桂次郎)各界要人が鱒釣りを楽しむ倶楽部
1924年 東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部、在日外国高官や著名人の別荘仲間、皇族、華族、政財学界要人が交流する社交場が発足。国際的避暑別荘地として最盛期を迎える。会員は英国式のフライ・フィッシングを楽しむ。
1929年 英国グロスター公、中禅寺湖畔の別荘を訪問

しかし、この後、日本は上海事変などを引き起こし、戦争への道を辿ることになる。
やがて、日本は欧米と敵対することになり、日光から外国人の姿が消えていくのであった。
大戦に突入するとともに、外国人の別荘は閉鎖されていった。
現在は、中禅寺湖畔に、英国、フランス、ベルギー、イタリアなどの大使館別荘が名残をととめているばかりである。
「夏場は外務省が日光に移動している」といわれたことも、今では夢のような伝説になってしまった。
栄枯盛衰は世のならいとはいうものの、ひとつの地域も、あるときに栄え、そして廃れていくのである。
[PR]
by kftkubo | 2012-05-22 20:52 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

第10章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(2)・・・「土方 寧」

丸沼の鱒釣り -思い出すまま- (全文) (土方 寧 大正8年)について

法学博士 土方 寧 1859~1940) 東京帝国大学教授 民法学者
雑誌「釣の趣味」(大正8年9月号)収載

c0239720_22583251.jpg


私が釣魚を始めたのは、恰度今から三二三年前の明治二十年頃であった。
その頃は品川湾の釣魚が今よりもずっと盛んだった。
今は隅田川の沿岸から種々な汚物が流れ寄って穢ないから、たんと出かけないが、その当時は未だ海も清潔だったし、方々から大勢釣魚者が集まって面白かったから私もよく脚立づりと云うのを遣ったものだ。
船を海の浅瀬に片寄せて積んできた脚立(折り畳むそうな仕掛になったもの)を水中に立て、それに乗り移って釣糸をたれると云う方法なのであるが、多くは梅雨の頃で、昼になると南の風が出て浅瀬が荒れ濁るから、昼間は釣れないものとされ、朝は出きるだけ早くから始めて、まづ正午前まで釣るのが一番漁があった。
で、一度釣魚に出掛けるとなると、釣る時間の短い割合に空しくその一日を潰して了〔しま〕わねばならぬつまり朝暗いうちから起きると、なると自然前の晩は殆ど眠れないし、釣魚から帰った午後も疲労と眠気とで茫乎〔ぼんやり〕して何も手につかぬと云う風でかなり、不便も感じないではなかったが、しかし、又一面から云うと、小暗い夜明前から海に出て、ひやりとした暁の海風に肌を晒しながら、四時頃になってほのぼのと水面の明ろくなるのを待って釣りはじめる、あの爽やかな心持は実に云〔なん〕とも云えない。
十月時分になると、私はよく海苔ひびの近くへ船を遣って、麦畑の畝のように立ち列〔なら〕んでいる竹垣の中間に釣糸を投げて、鯔〔ぼら〕や黒鯛を釣ったものである。
こうして、明治三十年頃まで約十年間くらい釣魚を続けたが、その後二十七年頃から鉄砲猟を始めるようになって、品川湾の釣魚はながく中絶して了った。
ところが、この鉄砲猟も明治天皇崩御の諒闇中に止めて以来、気抜けがして了って、今に出かけない。

そこで元の釣魚道楽が復活して、今日の日光丸沼の鱒つりとなったのである。
この日光の鱒つりの話をすれば、勢い現在吾々仲間の遣って居る(鱒釣り會)の由来も明らかになる訳かだら〔原文ママ。「だから」の誤植〕、少し許〔ばか〕り思い出すままに話して見よう。
日光に遊んだ者は、誰でも湯元から中禅寺湖に注いでいる湯川を知っているであろう。
この川は蜿々〔えんえん〕と曲がり曲がって二里余りであるが、その中禅寺湖へ注ぐ川口を菖蒲浜と読んで居る。
ここに、十四五年前、当時の宮内省御料局(今の帝室林野局)の経営にかかる魚の養殖場が設けられて、湯川と湖とに鱒を放養した。
鱒の種類もいろいろあるが、この時分養殖されたのは、アメリカ産の虹鱒(Rainbow trout)と云うので、繁殖の極めて旺〔さか〕んな種族であった。
胴の両側に虹のような斑紋があるので、この名が出たのである。

かくしてこの養殖場では、湯川で一日一円、中禅寺湖で一日五十銭の料金を徴して誰にでも釣ることを許可したのである。
ところが、七年程前、鉄砲猟や釣魚の友達で、私と極く仲の善い貴族院議員の鍋島桂次郎氏が、これも外交官出で以前仏蘭西大使を勤めた栗野子爵と同伴で、この湯川へ釣りに行ったことがある。
『大変面白いところだから是非案内しよう』と私は勧められた。
恰度八月の初旬であった。
私は鍋島氏に伴われて、湯川に行って見たが。
一向に釣れない。
鍋島氏も気を揉ん。
『いや漁不漁のあることだから仕事〔原文ママ。「仕方」か?〕がない。
しかし、何とかして小気味よく釣らせたいものだな』などなど気の毒がった。
実際初めての場所で、初めての時に釣れないことは、せっかくの弾みを抜かして了う。
氏はそれを心配したのだ。
ところが吾々は、中禅寺湖で「湯本〔原文ママ。「湯元」か?〕から山越しで三里程行くと上州の方へ降るところに、丸沼と云う湖水がある。その湖水へ行くと素晴らしく釣れる。」と云う噂を耳にした。
で、吾々は直ぐにも行って見る気になった。

そのときの話では、何でも群馬県の富豪の千明氏が、水産講習所と共同してその丸沼に鱒を飼養していると云うことであったが、何しろ丸沼と云うところは、湯本へ三里、上州の人家へ三里と云う深山の無人境で、養殖場にも一棟の家がある許り、泊るに夜具もなければ、食事の用意もあるまいと云うので、吾々は出発するに先立ち、湯本まで行って、米や味噌や缶詰などを買い求めて人足に持たせさて、丸沼に向かったが、その山路の険しいことと云ったらなかった。殆ど道らしいものとてはなく、夜の通行は無論のこと、馬さえ歩行の出来ないところを、或は荊棘〔いばら〕を繰〔くぐ〕り、或は乗り越えつ、或は匍〔は〕いつして、漸く目的地に着いたが、この時は千明氏の令閨がどこでか私どもの企てを聞いて出迎いにまで出て下さったので兵糧-宿泊までの用意万端心を用いて要がなくなった。
早速その湖水に釣糸を垂れたが、釣れること、釣れること、実に面白かった。
湯川の不漁をここで十分に償って、私達は喜び勇んで帰京した。

この愉快な釣りに味をしめて、その翌年で鍋島氏と語って丸沼へ行った。
今度も却々〔なかなか〕の漁があった。
で、東京倶楽部の一員たる鍋島氏はこの吉報を齎〔もた〕らして、倶楽部員間に吹聴したので「そりゃ面白いぜひ釣りに行こう」と云う人が続々と出た。
終に、釣魚仲間が出来、同志語って日光の鱒釣り會を作ったのであった。
これが新聞などで大袈裟に噂されるようになったのだが、つまりは鍋島氏と私とが丸沼に探検的な釣りを試みたのがそもそもの動機で、足掛三年目にこの會の成立となったのである。

鱒釣會の會員は、始め十幾人で、今村繁三氏、赤星鉄馬氏、西園寺八郎氏、伊集院子爵(今は退会)飯島魁氏、鍋島桂次郎氏と私などであった。
會員の中には釣魚に初心な人もあって、西洋流の釣竿を英国へ注文するやら、特別注文の竿を名題の職人に誂〔あつら〕えるやら、皆大いに弾み出した。
が未だ行かぬ人もある。
憲政会総裁の加藤男も會長と云うことになって居るが、往復に日数を要するところから、激務に寸暇なく、まだ一度も行かぬが、何しろ金のある人々の集りだから、その後丸沼の魚釣場には、種々の設備が出来て、近頃は頗る便利となり、したがって釣りも盛んになって来た。
會が出来てから恰度七年になる。
會員も増加して今では二十幾人になった。
岩崎小弥太男、古河虎之助氏なども入會している。

一昨年は「宿が一陳では不便だから」と云うので、今村氏と赤星氏とが協力して、更に一陳、家を丸沼に新築することになった。
その建築用の木材は、千明氏の寄附で、持山の生木を伐ったものである。
各年〔原文ママ。「昨年」か?〕年の暮に、その新築が成った。
一万三千円からの経費をかけた立派な家で、温泉も引こうと云う計画もあったようだ。

今では主として今村氏が會の世話を焼いて呉れている。
何時かも氏が態々〔わざわざ〕東京から料理人を連れて来て山中とは思えぬ贅沢な食事を調理させたりした。
が、余り贅沢すぎるので、その後は湯本の板屋と云う温泉宿の主人に托して、あまり贅沢でない。
野趣のある料理をつくらせて食べた。

七月八月を漁期として、會員は随時避暑かたがた釣りに行ける
こう云う訳で、今では万事万旦便利になって、頗る結構は結構だが、釣魚の趣味から云えば、寧ろ不便でも閑寂で野趣の漲った気分の方が貴いと云う者もある。
この丸沼には目下虹鱒のほかに姫鱒と云う日本種の鱒が居るこの姫鱒は食膳に上して頗る美味であるが、あまり弘〔ひろ〕く生存しない。
今では方々にこの種の鱒を飼養している。
秋田県の十和田湖にも盛んに繁殖させているが、先年丸沼に虹鱒を繁殖させていた技手が、北海道の或る湖から、この姫鱒を丸沼に移して放養したので、今では虹、姫二種の鱒が釣れる、訳であるが、この人が最近栃木県庁の技手になって赴任したので、その後任者がいないのに困っている。
この技手は頗る特志な人で十年近く丸沼に止まって鱒の養殖に従事したのだが、虹鱒の卵を撒くのは極寒で、雪の山籠りの侘しさは並大抵でない丸沼は何処へも交通が杜絶えるのであるから、余程の特志家でないと辛抱が出来ない訳で、未だに志望者を得ない始末である交通杜絶で思い出したが、最初私達が行路難を感じた山路は、その後會員が據金して修繕したので、今では夜間も提灯があれば歩けるし、馬で踏み入ることも出来るし、危険はなくなったことに先年北白川宮が吾々の鱒釣りを許可〔おみみ〕にせられ、御微行で丸沼にお越しになった時、県庁の方で倉皇〔きょこう〕として道路の修理にかかったので、吾々は今思わぬ余慶を蒙って非常に喜んでいる、北白川宮の御来臨のあった時は、英国で盛んに練習して来たかばり釣りの名人鍋島桂次郎氏が御同乗申して、小舟で湖水を乗り廻し、更に七八間離れて、私が別の舟で投げ釣りを試みたが、その日は一向に食わなかった。
その前日から宮様の御来臨を仄聞した吾々は、湖を荒らさずに置いた甲斐もなく、生憎なことであった。天候気温の加減で、余程漁に違いがあるので、何とも致し方がなかった。

吾々の鱒釣りの根拠地丸沼の外に、菅沼、瓢箪沼と云うのがあるから一寸紹介しよう。
湯本から山越えで一里余進むと山頂に金精峠と云うのがある。
栃木県と群馬県との境で、海抜約五千幾百尺、この峠を下ると海抜五千尺位の処に菅沼がある。
更らに下ると件の丸沼があり、丸沼から二十間位の長さの掘割のような谷川に続いて下の方に瓢箪沼がある、菅沼は丸沼より三四倍の大きな湖で姫鱒がいる。
千明氏が網で捕らせて日光の街へ売り出している。
瓢箪沼も丸沼より大きい湖だが、鯉や鮒などは居るが、草の多い所為で鱒はいない。
尚釣魚の出来る谷川では大瀧川と云うのがある。
湯川よりも大きく、目下この川一里あまりは手続を済まして釣りの占有権を持って漁番をしている。
しかし釣り者にとって面白いのは、何と云っても丸沼でことに虹鱒のかばり釣りである。
丸沼のは前述のように虹鱒と姫鱒との二種がいるが、この姫鱒と云う奴は殊に川を嫌って湖水を好み、それもずっと深みにいる會員の一人飯島氏は動物学者の立場から、「この姫鱒は鱒と云ううち、鮭に近いもので、多分海から湖水へ流れ上って来て、海へ下れずして湖に居残ったものだろう」その推測を下しているが、兎に角この鱒は深みにいるから餌を沈めて釣る、跳ね回って却々〔なかなか〕荒れる魚であるが、釣りのなぐさみから云えば虹鱒に如かぬ。
虹鱒は川を好み、水面に浮いて来る魚で、かばりで釣る、殊に蝶や蛾や蟲類を巧妙に鈎に細工した。西洋式のかばりで釣ると、一段の趣きがある。
湖水の場合は小舟で湖上に乗り廻して、かばりを十間位先へ投げる、竿は一間半にも足らず、なまりもないのに、投げ方がうまいと、いくらでも遠方へ鈎が飛んで行く。
その投げ方の巧拙に面白味がある上に、水面に浮いて来た虹鱒の鈎にかかるのが舟の上から見られるし、かかつた魚を手許の糸捲で、糸を捲いて引き寄せる間の興味もあって、却々に趣きの深いものである。

今年の夏は私は、丸沼に十日許り逗留して土方久徴氏と倶に釣ったが大漁で、一日に百幾匹も釣った。
今村氏、飯島氏、田中氏(前満鉄理事)なども行ったまた今度巴里の講和会議の晴の舞台から帰った西園寺八郎氏も却々熱心な會員で、九月に行くと云って居る段々に會の旺んになるのは結構なことだ。
何しろ、丸沼は深山の別天地で、東京市中で九十度に昇る酷暑の日も、この地は七十度位のもので、空気が乾燥して涼しく、随って蚊も居なければ虱〔原文では「のみ」のルビあり〕も居らぬ。
好箇の健康地と云って差支えない。
今村氏の云う如く、真に繁忙な実業家が俗事を忘れて、命の洗濯とするのに、この山中の釣魚くらいいいものはないと思う。


本書は、雑誌「釣の趣味」大正8年9月号に寄稿されたもの。
著者の死後50年経過により著作権期間が満了。
全文を掲載。
なお、原文はルビで読み仮名がふられているが読みが困難なものを除き原則として省略した。
また、旧漢字・旧仮名使いを適宜現代文に改めている。

土方寧

民法・イギリス法学者。
土佐(高知県)に安政6年2月12日生まれ。
1859-1939 明治-昭和時代前期の法学者。
東京大学法学部を卒業した。
民法を専攻し,イギリスに留学。
1883年(明治16)同大学の助教授となり、1887年にはイギリスに留学し、バリスター(法廷弁護士)の資格をとった。
1891年帰国し、教授に進み、1925年(大正14)までその職にあった。
民法典編纂(へんさん)以後の、わが国におけるイギリス法研究の代表的存在とされる。
また、1885年には、英吉利法律学校(イギリスほうりつがっこう)(現在の中央大学)の創立に力を尽くした。
明治24年帝国大学教授となり,44年東京帝大法科大学長。
英法の研究に道をひらいた。
18年開校の英吉利(イギリス)法律学校(現中央大)の創立者のひとり。
大正11年貴族院議員。
昭和14年5月18日死去。
81歳。
1939年(昭和14)北支派遣軍慰問中、天津(てんしん)に客死した。
著書に『英国契約法』(1887)、『英国流通証券法』(1888)がある。
[PR]
by kftkubo | 2012-05-18 22:50 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)

第1章 フライフィッシングの夜明け・・・・鱒釣りの聖地 奥日光

第1章 フライフィッシングの夜明け・・・・鱒釣りの聖地 奥日光

明治維新によって広く欧米に門戸を開いた日本では、その後、上流階級の子弟が次々に留学へと旅立っていった。
欧米の文化、技術を学び、一刻も早く日本がそれに追いつくことを願う、向学心に燃えた若者たちである。
しかし、彼らが持ち帰ったのは政治や経済、科学の先進情報だけではなかった。
欧米上流階級の生活様式や価値観、余暇の過ごし方も身につけて帰国したのだ。
趣味や遊びを通じて友好を深め、それを事業や政治に活かすという流れは、古今東西珍しいものではないが、その子弟たちは日本になかったフライフィッシングやゴルフなどを嗜むようになっていたのだ。
鹿鳴館でダンスを踊りながら文明国であることをアピールしたり、各国外交官との交遊を図ったのは有名な話だが、こういった趣味などが果たす役割も見逃すことはできない。
そんな日本の上流階級の人々が奥日光の地にマス釣りの桃源郷を見出した。それが丸沼であった。

明治時代初頭、すでにニジマスなどの養殖、放流が行なわれていた丸沼は、周囲を豊かな緑で覆われ、その清冽な湖水は水源をほぼ湧水に依存という恵まれた環境にあった。
海抜千mを優に超すその気候は夏でもさわやかで、高温多湿の首都東京に暮らす彼らにとっては絶好の避暑地でもあった。
丸沼は標高1430mという高地にあって、周囲のほとんどが私有地のため、豊かな自然が残されてきた。
他の主な湖と比べても、芦ノ湖が標高723m、河口湖が833m、中禅寺湖でさえ1269mだから、丸沼の高さが理解できるだろう。つまり芦ノ湖の約2倍の高地にあるわけだ。

c0239720_14571363.jpg


今から100年前の大正元年(1912年)、当時の政実業家たちの親睦団体である「東京倶楽部」の釣り好きによって「丸沼鱒釣倶楽部」が生まれた。
今村繁三、赤星鉄馬、土方寧、西園寺八郎、伊集院子爵、飯島魁、加藤男爵、岩崎小弥太、古川虎之助、鍋島桂次郎などが主なメンバーであった。

この地で日本におけるマス釣りの歴史が幕を開けたのである。


※東京倶楽部

今から百数十年前、日本が日英修好通商条約の改正に取り組んでいた時代に話はさかのぼる。
イギリスの駐日大使ハリー・パークスがビクトリア女王に宛てて「日本は紳士が集う社交クラブがない野蛮国」といった内容の書簡を送ったという情報を聞きつけた明治天皇が、イギリスに留学経験のある伊藤博文から社交クラブに関する情報を集め、外務卿で鹿鳴館の設立者井上馨に命じて作らせ、「内外人の交際を一層親密ならしめんとの旨趣」が鹿鳴館の設立意図とも重なる事から、同館の一室に拠点を置いた。
設立当初の会員は75人。明治天皇から数万円の御内帑金を受けている。
1908年(明治41年)に社団法人として認可され、1912年(大正元年)に麹町(現・霞が関)の国有地に赤レンガのビルを建築し、拠点を移動。
                                                 (ウィキペディア 引用)
[PR]
by kftkubo | 2012-02-18 15:06 | フライフィッシングの夜明け | Comments(0)