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フィッシャーマンのためのフィッシングカフェ


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第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」

第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」

赤星鉄馬(あかぼし てつま)

第12章 丸沼鱒釣俱楽部のメンバーたち(4)・・・「赤星 鉄馬」_c0239720_20172937.jpg


1883年(明治16年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月9日
東京都出身の実業家。大正銀行頭取。
趣味は馬の研究と釣りとバラの栽培。新橋の花柳界では粋人として有名だった。
文部省(現文部科学省)管轄としては日本で初めての学術財団となる啓明会を設立し、当時の金額で100万円を奨学資金として投資した。
公害や乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川湖沼の再起のためにと、味がよく釣って面白い魚ということで、日本へブラックバスを移入させた。

赤星鉄馬氏は1901(明治34)年~1910(明治43)年の間、アメリカに留学していた。
その時にアメリカの友人達とキャンプに行った時、大きな湖でブラックバスを釣った。
日本に帰国後、山中湖湖畔に別荘を持っていた赤星氏は、たびたび訪れて漁民の生活を目の当りにしていた。
乱獲のために魚類が年々減少し、暮らしは楽なものではなかった。
山中湖に限らず全国的にも近代工業の発達に伴う自然破壊が進んでいる事を、赤星氏自身アメリカに留学した経験から日本と言う国を客観視できていた。
漁民を救済する為にマスの移植を計画しましたが、水温が適さない事がわかり、断念した。
その時、アメリカ留学中に知ったブラックバスなら、釣って面白く食べて美味い魚だということを体験していたから、山中湖で移植、繁殖させる事を考えた。
1913(大正2)年頃から大学教授や、農業関係者が渡米するたびに、ブラックバスの移入を依頼した。
しかし、目的は達せられず月日は過ぎるばかりだった。
親魚や稚魚を採集するには、時期的な問題、また適したフィールドを探す為の地理にも詳しく、うまくブラックバスを得る事が出来たとしても輸送を考えると至難極まりない事は誰もが理解できたはずだ。
何よりアメリカに精通している人物でなければ思うようには事は運ばない。
それから10年が過ぎようとしていた。

1923(大正12)年の末。
赤星氏は韓国の成歓で、成歓牧場を経営していた。
馬の研究にも余念なく、その為に牧場支配人杉沼氏を、純血のアラブ種馬を買うために、インド中西部のボンベイに派遣した。
赤星氏の意に叶ってその有能さを発揮した杉沼氏をヨーロッパやアメリカにも行かせ、更にアメリカのマサチューセッツ州の牧場で一年間実習をさせた。
その間に、ブラックバスを自分の手で移入する事を決意した。
しかし、またも壁は立ち塞かる。
当時アメリカ政府では、ブラックバスは特別な貴重魚として扱っていた。
輸出禁止だった。
しかし、諦めることなく、ならば学術研究にと東京帝国大学に依頼した。
やがてワシントンの政府当局の許可を得る事になり、移入計画が実行された。
おそらく牧場支配人杉沼氏がいなければブラックバス移入は実現していなかったかもしれないと赤星氏自身が後に語っているが、更に赤星鉄馬氏には強力な助っ人がアメリカに住んでいた。

「プリンス」「バロン(男爵)」などと呼ばれ「ワイン・キング長沢」の名をとどろかせ、1983(昭和58)年11月、レーガン大統領が来日した時、衆議院本会議場にての国会演説で
「1865年、ナガサワ・カナエというサムライ・スチューデントが日本をあとにし、西洋で学んだ。10年後、彼はカリフォルニア州サンタ・ローザで小さなワイナリーを開き、まもなくカリフォルニアのグレープ・キングとして知られるようになった。日米両国にとって、この元戦士のビジネスマンの功績は多大なものがある…」
最も成功した在米日本人と長沢鼎(ながさわかなえ)氏を称えた。
この頃長沢氏は世界的に有名な植物の発明王とも言われた園芸家ルーサー・バーバンクとも親しく付き合っていた。

長沢鼎氏は元薩摩藩士で藩の名門校、開成所で英語を学び、1865年、藩費留学生(19名)として五代友厚や森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。
鎖国中のことでもあり、幕府に対しての申し開きとして脱藩し密航して国外に出たという事として、19名すべて変名を名乗った。
または藩主から与えられたもので「長沢鼎」という名前もこの時に与えられたものである。
本名は「磯永彦助」である。
その後、イギリスからアメリカに渡り帰国しなかった彼は、生涯をこの名前のまま終えることになった。

薩摩藩士、天文方でもあった磯永孫四郎の4男。
本名「磯永彦助」。その弟が磯永弥之助である。
弥之助は赤星家の養子になる。
「赤星弥之助」。
その子供が赤星鉄馬氏である。
長沢氏は伯父にあたるわけである。
長沢氏の経営するぶどう園はカリフォルニア州サンタローザ市にあり、かつて長沢氏が師事したハリスがその地をファウンテン・グローブと名づけぶどう園もファウンテン・グローブ・ワイナリーとした。
長沢氏の死後、その資産は人手に渡るが、現在でもその地にその功績を窺い知ることができ、それはサンタローザ市庁舎にある自身の胸像や、パラダイスリッジワイナリーにある長沢ミュージアム、またファウンテン・グローブイン・ホテルの象徴として、かつて馬小屋として使っていた朱色の円形ドームが、その名残としてそびえています。
赤星鉄馬氏が伯父さんの長沢氏に依頼した時には、長沢氏は70歳を過ぎていたであろうと思われる。
長沢氏と杉沼氏が協力して一年がかりでブラックバスを採集したわけだが、長沢氏が高齢でもある為、使用人、或いは友人に依頼していたのかもしれない。
採集したブラックバスは長沢氏所有のぶどう園にあった池に貯めておいた。
ファウンテン・グローブ・レイクと呼ばれる湖は現存するが、記述では「小さな池」とあるので現在は残っていないかもしれない。
ただ、サンタローザ市にはバスフィッシング・ガイド業をしている方もいるし、たくさんある池、湖には、その頃の子孫のバスが悠々と泳いでいるかもしれない。

カリフォルニ州ソノマ群サンタローザ市ファウンテン・グローブ。
この地を拠点にブラックバス採集の為に、フィールドを駆け巡った人達がいて情熱を燃やした。
極めて慎重に、極めて大切に、より多くのブラックバスを採集する為の試行錯誤は連日続いたであろうし、討論も繰り返されたであろう。

1925(大正14)年5月、杉沼氏が帰国する時、純血のアラブ種馬、ジェルシイ乳牛、食用鳩等と共にブラックバスを持ち帰った。
帰国直前、サンタ・ローザ市の水道貯水池の水源である小滝の滝壺で幼魚を見つけ、ドクトル・ジョージ氏、ダブリュー・コンスタブル氏などの協力を得て、滝壺の水を汲み出して120~130匹の幼魚を捕獲した。

これまで採集したものを合わせて、220~230匹。
あとは日本まで無事に持ち帰るだけとなったが、サンタローザ市からサンフランシスコ港までの約100km、自動車で運搬し、東洋汽船コレア丸に積み込むまでに100匹近くが死んでしまった。
しかし航海は順調で5月28日早朝に無事横浜港に到着しました。
学術研究魚という名目の輸入でしたから、杉沼氏から東京帝国大学学部員にバトンタッチされ、久保氏、横屋氏、両農氏が受け取った。
ブラックバスは金魚桶に入れられ、小田原駅までは汽車輸送し、小田原から箱根町芦ノ湖までの約17kmは、人が担いで運搬した。
険しい道のりだったでしょうし、何より坂道でもあり、その17kmはサンタローザを出発してから最後の行程でもあり、最後にして立ちはばかる箱根の道は最も苦難に満ちていたように思う。

箱根町二カ村到着。
その道のりで3匹が死亡。
放流時には、赤星氏、東京大学関係者、東大名誉教授、日本学士院会員、雨宮育作博士も立合いには参加できず。
箱根町外二ヶ村役場歓業係の〆木勝蔵氏、地元の漁師田中三義氏の手で一匹づつ体長を目測で記録、33cm(2)、30cm(1)、9cm(88)、合計91匹このうち10匹を当時の箱根町長川辺儀三郎氏の提案で、箱根町の飯田栄吉氏所有の池に放つ。
日本では未知なる外来魚の生態等を、つぶさに観察できるようにと考えた。
かくして、1925(大正14)年6月22日に、78匹を芦ノ湖の西海岸箒が鼻に放流された。
この時の東京帝国大学の資料では、大きいもの3匹、小さいもの87匹、合計90匹、内、小さいもの10匹は飯田栄吉氏所有の池に放流とあり、箱根町組合役場保管資料では、合計91匹。
いずれにしても最初に放たれたという数と合わないが、放たれた時は78匹なのであろう。
約一年後の1926(大正15)年6月18日付、東京帝国大学農学部水産動物学教室より川辺町長宛の文書にて、飯田栄吉氏所有の池に放たれて生存していた6匹が、帝国大学の指示によって芦ノ湖に放流されている。

【山中湖から芦ノ湖に・・・】
冒頭に記述しているように、当初赤星氏は山中湖の漁民救済の為にと考えていましたが、芦ノ湖に変わった理由は、まずこの移入に関して東京帝国大学の学術研究魚としてアメリカ政府の許可を得たことにより、すべてを東京帝国大学側に一任した。
赤星氏も韓国に居たこともあり、任せるしかなかったともいえるが、これはあえて韓国に居る事で移入を順調に運ぶ為の配慮だったかもしれない。
東京帝国大学では芦ノ湖に淡水魚実験所もある上に、他の水系と絶縁されていて、他の淡水区域に移行分布できないという地理的な理由があり、ブラックバスが驚異的な繁殖をしたとしても心配する事がなかった。
芦ノ湖でもマス類の繁殖は湖を管理する帝室林野局が行ってきたが、芦ノ湖は適さないのではと考えられるようになっていた。
そのように地理的、時期的なこともあり芦ノ湖が選ばれたのであろう。

【芦ノ湖に移入後】
この頃すでにブラックバスは害魚だという非難もあったが、現在、芦ノ湖ではワカサギ、トラウト、ブラックバス、それぞれの釣りがされていてそれぞれのバランスが保たれているように思う。
1926(大正15)年5月22日 ・・・箱根町の川口庄之助氏が箱根遊船会社出張所の桟橋近くで大きなバス3匹を確認。
1926(大正15)年6月14日 ・・・21~24cmのバスが20~30匹ずつ泳いでいる群れを確認。
1927(昭和2)年10月4日 ・・・ブラックバスがよく釣れたと報告あり。
1927(昭和2)年11月12日 ・・・4日間の調査を行った結果、捕獲された24cm、8,9cmのバスはいずれも芦ノ湖で繁殖した個体である事が確認された。
1972(昭和47)年 ・・・・・・アメリカ政府の協力の下、ツネミ・新東亜グループがガルシア社の仲介の元ペンシルベニアからバスを空輸し、5000匹余りが芦ノ湖に放流された。
by kftkubo | 2012-05-30 20:18 | フライフィッシングの夜明け